角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

毎日が日曜日再び。

 

私のソウルフードのひとつ、という言い方があっているかどうかは知らないけれど、とにかく身欠き鰊なのだ。生干しやソフトタイプというようなものと本乾のものは味わいが違う。
 
かなり脂があるので手で割こうとすると大いに汚れるし、においは付くし大変なことになる。新聞紙などの上で軍手をはめて皮を剥いて身をはがす。それに生味噌をつけて食するとどれほどお酒に合うか、私は分からないけれど、味噌を待たずに剥がしながら次々と口に運んでしまうほどだ。
盛大に汚れて、におって、そんなにまでして食べたいかというと、食べたいです。というくらいに美味しい食品だ。
 
最近の人はあまりそういう食べ方はしないので懐かしいだろうと思い、店で一度お出ししたときは、固くて無理というご高齢の方がいたので、それきりやめた。
 
生の本身欠きを食するのは少数派であるとしても、甘露煮が最高に美味しい。作るのは時間がかかり、糠か米のとぎ汁に一晩以上浸漬し、母はたわしで洗っていたけれど、うろこやひれや汚れなどの丁寧な下処理をして、それから番茶で茹で、そこからやっと煮汁で煮る。
 
使用した容器なども脂で汚れるし、においも付くから、きっとご家庭では敬遠されがちな料理だと思う。これを、もう少し寒くなってから店で出したかった。早々に一箱仕入れてあり、冷凍庫が身欠き鰊でいっぱいだった。週末に半分くらいを甘露煮にしたので元シャチョーに少し差し上げようと思う。一昨年に差し上げた時は大そう喜んでくれたし。

今度会う時に般若心教の本をプレゼントすると言ってたから、身欠き鰊の甘露煮も出世したような気がする。
 
たくさん眠って、一日3回食事しているので、体重はすぐ取り戻せると思う。

私は、私がこわいのは、そういうのに少しほんの少し自分の狂気を感じるからだ。といって変ならば、それが狂気めいていないかと危ぶむからだ。もはや胆力とか、あっけらかんとか、のんきとか、そういうことではなくて、この落ち着きようが鈍感さを通り越した狂気ではないかと私はとても怖れている。いやそんな大したことを言ってるんじゃないけど。

ある人は、気持ちの切り替えがはやいのねと言った。切り替えも何も実は私は感じていない。ずいぶん元気だねと別な人が言う。私はある意味せいせいしたのだからそれは当たり前だ。とは思うものの。まるで実体験として心に残っていないような気がするのだ。
ほぼ忘れているか、経験した事実すらなかったような気がしていて、それが一体どういうことなのかとても不思議な感覚だ。
なかったことのような気がするから、いささかの反省も後悔も湧き起こらない。
まるで脳が記憶にとどめることを拒否しているような気分なので、それが小さな狂気ではないかと。