角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

去年の桜

 

昨年の今日、桜を見た。国道2号と並行する広い通りから、香雪美術館の隣の弓弦羽神社に向かう参道だ。西ノ京でも薄墨桜を堪能したので桜三昧の旅だった。
 
冬のさなかは、移住地を半ば本気で探すほど暖かい土地に焦がれたけれど、雪解けがはじまり、数日前からスニーカーで外を歩けるようになると、特に移住しなくてもいいと思えるようになった。それにおそらく暖かい土地に住むことよりも、訪れることの方が好きなのだと思う。
 
いつもなら旅の空の3月4月をどう過ごしたらいいんだろうと思ううちに3月も過ぎる。
 
私は何ひとつ出来上がっていない。
 
蕎麦店では、味付けをさせてくれるようになった。ある日急に、今度からいろいろな味付けもしてもらうと宣言された。とても嬉しい。
もちろん、店の根幹に関わるようなことはしないけれど、たとえばキンピラとか和え物の類を自分の味付けでやってみなさいとのこと。作る分量もかなり多い。自宅や学校のようにレシピも計量もないので、目検討で調味料を入れ、自分の舌だけを頼りにする。これを繰り返すと実力はつくはずだ。味には正解がないのでとても楽しい。
 
店は曜日や天候やそのほかの要因によって入り込みが大きく違う。少し暇な日が続いたとき、だしまき卵の注文が入った。出汁巻き卵は一度に5本焼き、ラップに1本ずつ包んで冷蔵し、レンジで温めてから提供する。その時の出汁巻きは、あたためると滲みでる汁の色が何だか赤い。ラップを開封すると卵の表面がぬめぬめしてねとねとしてべたべたした。においは残念ながら他にまぎれて分からない。
 
店長に訴え、別のものと交換したが、これはぞっとした。自分が正直者で良かったし、店長も悪人でなくて良かった。ひまが続くと作り置きをはじめ買い置きの食材がだめになるのだと店長が言う。私はひたすらこわがっていた。次のは大丈夫だったんだろうか。
老化が生まれたときから始まるように、腐敗もまた、料理が生まれたときから始まるのだ。
 
すすきのの店の板前さんは「捨てるのも勇気!」と、ひとりごちながらどんどん捨てていたけれど、蕎麦店の店長は、そのへんの見極めというか線引きが甘いと私は睨んでいる。絶対に言葉には出さないけれど。
衛生観念とか危機感は、育った環境等によるところが大きく、人柄とはほぼ無関係だと思うが大いに反面教師にしなければならない。
 
自宅で一日一巻きを目標に、毎日出汁巻きを巻いていたけれど、ここ2日ばかり、あれを思い出すので練習していない。しかし、現場というのはとても役に立つ。当たり前だが、駄目なことばかりではないけれど、全てが良いということもないので、鵜呑みにしない力というのは絶対に必要だ。人間関係がとても良いのは宝だから、波風は立てず鵜呑みにもしない。
 
去年は桜、今年は腐った出汁巻き。