角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

いちめんの雪。

 
辛し和えにしようと思って買った菜の花を少し放っておいたら、咲いてしまった。

外は雪だ。降りしきる。毎年の3月がそうだ。雪解けの日が続いて、いよいよかなと期待をすると翌朝はクリスマスのような雪景色に逆戻りしたりするので、ひとしきり悔しがったり、すねたり、怒ったりしながら、結局は大きな諦めとともに3月をやりすごす。
  
ボールに一杯サラダをつくったり、近距離を列車に乗ったり、やけどをしたりしているうちにあっという間に10日くらいは経ってしまうのに、3月はまだいかない。
 
蕎麦店では3日連続で貸し切りイベントがあって、3日分の仕込みをすると70名分近くなった。サラダは直径50㎝のボールで作った。もう度胸が据わっているので、躊躇なく調味料を入れる。最後は店長に味見をしてもらうけれど、初めて一発OKがでた。これは本当に嬉しかった。自分が食べたいような好きな味にするのではなくて、前に味見をさせてもらった、店長の味付けのような味にするので、なかなかOKがでなかったものだ。
やけどは毎度のことなので、慣れた。見たことはないけど、日本列島ができたときのように、そんな具合に手首に油がはねて赤くなっている。ずうっと前の微かなやけど跡の上にも油がはねた。 

 

油のにおいは身体に染みるようだし、先日は、もうたくさんというくらいの鯖の骨を抜いていいかげん魚くさい女になった。それから指に亀裂ができるくらい洗剤をつかい散々な手になった。昔、飴玉のように丸くて大きな指輪をはめた時、なんにもしていない手だとお店の人に笑われたけれど、今なら、指輪の似合うような手ではないと、また笑われるかもしれない。
 
かあさんの遺した安っぽい指輪がうやうやしくケースに入っていて、青い石がついているけれど、私のどの指でもくるくる回るから、どの指につけるのか私は知らない。どうせ安物しか買わないくせに、それでもかあさんにしたら立派な贅沢だったと思うから、指輪が買いたかった気持ちを考えると、かわいそうでたまらなくなる。指輪をつけたところをみたことがないから、きっと時々、とりだして眺めるためだけのものだったんだろう。
 
私は指輪を欲しいと思ったことも、身につけたこともない。これからもない。だから指輪のケースを開けるたびに、捨てようかなと思ってみるものの捨てきれず、売ろうかなと考えては安物をお店に持って行くのも恥ずかしく、買った人を思い出して切なくなるのは、正に遺品のあるべきあり方なのかもしれない。
お彼岸には牡丹餅かどら焼きを作ろうと思う。