角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

自分で淹れる

 

一般教養として触れておいた方がいいこと、例えば、仔牛の解体だとか、カクテルシェイクだとか、礼法とかが総合演習として毎週2時限カリキュラムに入っている。
先日は紅茶授業があった。演習の講師は6割くらいが外部インストラクターによる。
話を聞いたり、香りをかいだり、飲んだり飲んだり飲んだりして、楽しかった。

ティーバッグのいれ方はお湯が先かお茶が先か、という話になり、先生はお湯を先にカップに入れると仰った。なぜならティーバッグにお湯を注ぐと浮かんでしまって直ぐには浸りきらないところがでてくるから、あらかじめカップにお湯をいれてからティーバッグを入れるとすんなり浸漬できる、と言う。

家で試してみたけど、でたらめだと思った。
ティーバッグを先にいれておけばお湯はあたりをつけてまんべんなく注ぐことができるから何ら問題なかったけれど、お湯にティーバッグを入れたときは、むしろこちらの方が浮いてしまい、直ぐには沈まなかった。

別に自分のやり方がいつもOK、話が逆、というのではなくて、先生のおっしゃる通りのことだってあるだろうから、どっちだっていいんだと思う。どっちでもいいことをどちらかに決めようとしたり、それこそ真実は一つみたいな態度で道すじをつけてノウハウにしたり、威厳づけにしようとしたりするのは大いに疑問だ。紅茶の先生の話ではなくて。

ハナシをうのみにして、実際に紅茶をいれて比べたこともないのに、したり顔でティーバッグはね、とか言う人だっているだろうから、そういうのはうんざりする。
決め事や決まり事は少ない方がずっといいんだけど。
どうでもいいことと、どうでもよくないことが混在してルールだのセオリーだのが数限りなくあるようなのは、うざい。知ったかぶりを増長させるだけなんだろうと思った。

何のお点前だったか心から忘れてしまったので、道具も何だったのか覚えてないけど、お茶のお稽古のとき、ナニカ、例えば、茶道では急須は登場しないけど、例えば仮に急須の蓋が本体と離れたところにあって、急須に蓋をしましょうね、というときに、二手でとるか三手でとるかということがあった。

茶道は右利き文化だから、左手で直接急須に蓋をしてしまう、なんてことはあり得ないし、右手でとってそのまんま蓋をすることもない。だから蓋が、とある場所にある場合、右手でとって、左手に持ち替えて、再度右手で持ち直して蓋をするのが三手、とある場所その2にある場合、左手でとり、右手で持ち直して蓋をするのが二手だ。
言葉つきも、にて・さんてとならった。繰り返すけどもちろん急須の蓋ではない。

で、その時にほかの生徒が「微妙な、とある場所」にあるものを、こういう場合は二手でとるのか三手でとるのかと質問したときに先生は、躊躇なされた。

それで私は、どっちだっていいんだ、と理解したし、どちらでも、と言えない茶道の奥深さ(笑)を認識したのだった。勿論古い話だし、私は新米の新米みたいなところしか知らないので、もっと深い意味があったのかもしれないけど、お茶のことを考えるたびにいつもこの、にて・さんてを私は思い出してしまう。

知りもしないで憎まれ口をきくのはどうかと思うけれど、どうかと思われるのが私なので、書いておくと、確かにお茶の動作は美しく流れるようで無心になれる。文字通り無心になれる。けれど、無心であることが崇高だったり高邁だったりするわけはないんだと思う。そこはきっとほんとに違うと思うので、むしろ子供が無心に折り紙を折ったり(いまどきそんな子がいるかどうかはわかんないけど)するのに似ているので、だからこそカタチでいいんだと私は強く思っている。


たまたま今、柳宗悦の本と千宗屋の本を持ってる。
いや持ってるだけじゃだめなんだけど、何が書いてあるか知りたいけど、特に柳宗悦の方は言葉が難しいので、かみくだいた解説本みたいのがないものだろうか。このままだときっと読み終えない。