角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

一切粉。

 

灯油ファンヒーターの調子が悪くて、修理屋さんを呼んだ。持ってってもらうことにしたんだけど、代車ならぬ代ヒーターの申し出があったにもかかわらず、いくら今冬が寒かったと言ったって、一両日中に暖房は要らなくなると思うのでお断りしたら、連休に入り、異常に寒くて、暖房がない身には「ない」事実がこたえてますます寒く、仕方がないので、オイルヒーターを引っ張り出してあっちとこっちに置いて、さらに小さなハロゲンヒーターも活躍させてみた。私は寒いのが苦手だ。雨まじりで風も強く一歩も外に出る気が起きない。

いつかの2月の東京は本当に寒かった。顔を覆って泣きたいくらいに風が冷たくて、札幌に戻ったら雪のせいでずっとあたたかく感じた。そしてまた雪を撫でてくるせいで春先の風は札幌で冷たい。雪はそんなだ。
と、雪の話ではなくて、粉。

まだ、どうにも寒い、というよりも寒々しい感じがするので、かくなる上は饂飩だと思い、かねてより用意の強力粉と薄力粉を同割で捏ねてグルテン作業をした。中力粉がなかったので。
初の手打ちうどんは、うどんの味がした。私はそれほどうどん好きではなかったけど、私の好きな人がうどん屋さんを教えてくれて以来、うどん頻度は高まった。何よりもうどんのつゆを何度も何度も繰り返して、配合比を収得したため、うどんなしでも相当に美味しい。さあ、この数行でうどんは何回登場しただろう。

実は、うどんの前に、麩にとりかかっていて、本当に作ってみたかった憧れの生麩に着手していた。生麩は強力粉から作る。捏ねて休ませる間にうどんに着手し、うどんの合間に、生麩作業に戻る、というようなせわしない流れ。かつ、生麩をどうやって食すかを考えたとき、とりいそぎ、甘味として食したかったため、さらに並行して小豆を煮た。そ、この小豆工程によって、部屋は湿度と温度に満たされ窓は曇るのだった。いいにおい。

うどんを茹でたり、麩を蒸したりの強火作業も加わり、すっかり暖かくなり、ゆたかにグルテンを孤食したのだった。

後出しみたいな話になるけど、昨日、蒸し餃子を皮から作った。蒸し餃子の皮は焼き餃子とは違い、浮き粉(うきこ)でつくる。浮き粉というのはグルテンを取り去った小麦の粉で、強力粉を生麩にしあげるときに長い時間水洗いをするけれど、その時の洗い水の白濁が浮き粉だ。この懸濁的状態を沈粉(じんこ)というのは今日知った。乾燥させて浮き粉になるそうだ。蒸し餃子は学校の実習でつくり、半ば透き通った大変美しい料理で、のどごしも良く、是非復習したいと考えていた。これはこれでかなり難しかった。こっちの方は作っただけで、冷凍庫に。

先月奈良に行ったときは、葛餅は世界で一番美しい料理だ、という文を読んだこともあり、楽しみにして、葛の料理をいただいた。東大寺に寄るのは忘れた。
奈良は粉糠雨だった。

もし私にあすの朝が明けるならば、生麩に餡をのせて朝食にしようと思う。