角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

しゃざ。

 

和菓子の本を読んでいたら、仙台の老舗の話があって、面白いと思ったのは店には未だに電話もFAXもないのだという。そういう商い方法なのだ。店内の写真をのせているブログを覗いたら、掛け軸に且座喫茶とあった。何年ぶりに聞く言葉だろう。

且座(しゃざ)という名前の料理屋があって、最後のデートはそこで、と考えていたらとうに閉店していて行けなかった記憶がある。且座の方は懐かしく思い出しても、相手のことは、そんなに懐かしくはないし、酷い振られ方をして何年も引きずったわりには、時間薬ということなんだろうけれど、恋い焦がれた事実は覚えているのに、何に対して、というのを忘れてしまった。

そういう時の自分の気持ちのありようは嫌いだ。好きだった人のことを思い出して、すでに何の興味も失ってしまっていることに気が付く時が嫌だ。

自分にがっかりするので、もうそんなのは嫌だと思う。酷く振られるのも、もちろん。

且座から話が反れたけれど、いや実は且座の話を書こうとしたわけではないけれど、私は鉛筆を転がすようにものを書くから、どっちに転んでどう終わるのかが全く分からない。

日記は全く書く気にならなかった。私は読んで欲しい人のためにだけ駄文を書くけれど、読むということがどういうことなのかというと、それは読んでいる形を成すとか、形を成していることを信じ込ませることだとか、ややこしく思っている。
読んでいる形の箱をかぶって、箱のなかで本当に読もうと読むまいとそんなことはお構いなしなんじゃないだろうか。これは今思いついたことだけど、でも、カタチは大切かもしれないと思う。
拗ねたわけじゃなくて、何一つ書けなかった。書かないから書けないのだ。それが「且座喫茶」を目にして何だか少し書いてみたい気になった。

茶の流派の違いを質問したサイトをみたことがあるけれど、どこも違いはない、ただ抹茶を飲むだけだと回答した人がいて、嬉しくなった。
お茶のお稽古の一生もののおつきあいの仕方だとか、かかる費用について、ただ興味があって調べていたときのことだ。

茶道を習うということは、茶文化を継承していくためのパトロネージなんだと言ってる人がいて、それはとても納得できた。一つのフォーマットを終了した免状ではなく、次に進むための許可を得るというシステムだから、ファーストステージで習熟熟達したところで、出すものを出さなければ絶対に次のステップへは進めない。
累進課税みたいに余裕のある人がお金をかけて茶の湯文化の存続をパトロネージするものかもしれない。そうするとそのお金がどのポケットに入ろうと問題ではないはずだ。けれどみぎひだりなのか、うえしたなのか分からないけど、継承支援と裾野を広げるのと矢印の方向が違うことが一緒くたになってるところで、茶の心をお金で買うような気がしたりして、畏れ多くも胡散臭さを思ってしまう。

矢印ごとに分離して、いっそカタチなのだと言い切ればどうなんだろうと思う。


脚立に上って赤い大きなブレッソンの写真集を図書館の棚からとって開くと、沈黙でしか伝えられないことがある、とあった。そうなんだろうか。

変態は妄想の中だけでは変態たりえないけど、行為行動にして初めて変態になる。
思いはカタチでしか伝わらないのではないか。

強い思いを拙いカタチに流し込むと溢れて行間を濡らすし、変態は逮捕される。

 

変態で日記が終わるなんて思わなかった。