角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

グレーチングを考える。

 

離婚したのが1991年だからすっかり失念していたが、息子は元夫の戸籍に残っていた。それで旅行に出る前に発生した件について、当事者と辛うじて言えるのが、同一戸籍にあった息子だけなのだった。

事件そのものよりも、息子に伝えなきゃいけないことに大変動揺したが、彼は非常に落ち着いており、冷静さを少しくらいは訝しむ気持ちになったほどだ。
練習になる、と私がいうと、分かったと言って各種手配方に着手し、週末が明けるとすぐに道東方面に出向き、あれやこれやの煩雑な手続き関係、引き払い関係を一人でこなしてきた。

小学校4年生くらいの時分から何も変わっていないような気がして、子供に何かを相談することも頼りにすることも任せることもほとんどなかったのだけれど、いつの間にか大人になっていたことに驚いた。

端的に言うと元夫が鬼籍に入ったという話なのだけれど、本人の両親はすでになく、本人遺品の中から書簡やりとりをしていたらしい妹の住所が見つかり、息子が連絡をすると、先方ご両親の眠る場所に入れたいとの意向を受け、週末に遺灰とともに道南方向に向かうようだ。

私は連絡するときの文面案を考えたのみで、一切私の名前は誰からも出てこないのは本当に真っ当なことだと思う。結婚意思を表明した時点で、私を家族とは認めない、われわれの家族は前妻の一家である、と、生前の義父は家族を代表して私に言った。

それは全く正しいことに思われたし、そういう良識あるご家族だったので、私は彼らを嫌ったり恨んだりしたことがない。お目にかかったことも数回しかなかった。

自分たちの短い結婚生活を考えて見ると、始まるときも終わるときも、理由があるにせよ、私がしたことは酷いことだ。恥ずかしい生き方といえば、まさにそうだ。


旅行目的の一つは仏像を見ることだったけれど、新たな思いが加わったのだった。

奈良から京都へ1時間ほどで行けるのを知り、三十三間堂を見てくるといいと息子が言うので、旅程に加えた。

市バスを降りるときに、前の女性が1000円札を出して500円の一日乗車券を購入した。運転手がお釣りを渡し、次に私が1000円札をひらひらさせているのを見て、500円券を購入するのかと聞く。します、というと何を思ったか運転手が、そういうときは二人分を1000円札で買えばいいではないか、と言う。

意味が分からずあっけにとられていると、前の女性は一言も発せずにバスを降りていき、どうやら同行と勘違いされたらしい。そして私の掌にお釣りの500円玉を放ると、500円玉はワンバウンドしてバスのステップを転がり落ちて、側溝の蓋の隙間にスロットインしたのだった。

運転手がそれを眺めていて、お釣りが落ちたようだ、と言うので、乱暴に放るからじゃないかと言いそうになったけれど、側溝の中に落ちてしまいました、と言って降りた。バスはすぐに発車した。

札幌のバスの運転手なら、あーあしょうがねぇ、くらいは言って、あらたに500円をくれると思う。

勝手な勘違いをされたことと、お釣りを放られたことが、かなり悔しく、500円玉が好きな自分にとって500円玉の逸失は非常に惜しく、千体もあるという仏像を眺めながら、千体もいたところで、拝観者の方がずっと多いんだから、眺められることにすれっからしになってるに違いないと、罰当たりなことを考えたので、もはや自分には功徳があろうはずもない。

側溝の蓋は、あれはグレーチングというらしく、さまざまなパターンがあるようだ。長い隙間のある形ではなくて、格子形状であれば、500円玉は、ああまできっぱりと落ちなかったのではないかと考える。
グレーチングという名称も知ったし、アマゾンで売っていることも知ったので、良い勉強にはなった。


恥ずかしい生き方をしている私は、恥ずかしい生き方をしたくない人には受け入れがたく許しがたい存在かもしれないと思う。いまだかつて誰からも容認されたことがない気がするが、私は、それでもなお、アクセプトして欲しいと願うのだ。