角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

坂の途中。

 

有名人の訃報に接するときはそれなりに驚きもすれば、ああ残念なことだと悔やむ気持ちになることもある。それで大体はそれですぎてしまうので、あまり日記の中でそういうことに触れたりはしなかった。
けれど、今回は自分でもなぜこんなに悲しくなるのかちょっと理解できないくらい悲しいと思った。衝撃でもあった。勿論個人的な知人でもなければ熱心なファンというわけでもない。だからこんなに拘泥するのは何故なんだろうと考えた。
 
亡くなったご本人の対談記事を何度か読んだことがあり、高校時代からの友人関係がこの年齢まで続くのはすごいなと思ったし、会話からお互いの信頼関係が見え、ああいいものだなあと思っていたのだ。
対談相手であったコラムニストの文章が私はとても好きだ。だから恐らくは大切な友人を失くされたその人の悲しみを私は悲しんでいるのだろう。
 
恐らくは自分の方が先だと考えていたのではないだろうか、突然のいなくなりかたにどれほどの思いを抱いておられるか、考えただけで何のゆかりもない私が切なくなる。
老年にさしかかったばかりのときに早々と友人を見送るお気持ちはいかほどのものか。
 
そして私は気がついてしまった。コラムニストである彼はアルコール依存症を克服している希少な存在で、いったん依存症になった人は、何年断酒していようと、それは坂道の途中でボールが止まっているような状態なのだそうだ。
心配している。
 
亡くなったご本人に限らず、良い人や良い仕事をした人が次から次となくなっていく。
私たちは全ての人にというわけではなくても、ポジティブな影響をきっと多数の人に与えたであろうという意味で「善なる」人々を日々に失っているけれど、新しい善なる人々は果たして生まれているのだろうか。私たちは多く失い、少なく得ているのではないか。そしてその少ない資質の原石を、多く失っていく世代は磨き上げることができるのだろうか。
  

お二人の会話が満載の「人生の諸問題 五十路越え」を読もうと思う。