角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

一夜限りの友達が欲しい。

 

父親の墓参にでかけ、これでシリーズ墓参は終了。そのあと、手違いでかなり歩くことになり、疲れはててリタルコーヒーに行く。
リタルコーヒーは、美容院の帰りに寄るのを楽しみにしていたカフェだけれど、もうその美容院にいくのをやめたので、目的的に行くようになった。とにかく私はよく何でもやめるんだなぁと今、書いてみて感慨した。
 
私は横井珈琲工房のコーヒーが本当に美味しいと思うけれど、それは唯一ということでもなくて、各所美味しいものは美味しく存在するのであって、リタルではいつもリタルブレンドを頼むけれど、何というか色気のある味わいだと思った。最近はあまり苦い濃い系を好まなくなって柔らかなのを好きになった。それで、マンデリンではなくてハウスプレンドを注文するようになった。
 
読みたい雑誌があったのだけれど、すでに時効になっており、かくなる上はバックナンバーで、とすら考えたけれど、すでに売り切れていると自宅に戻って分かった。
 
そんなに臆面もなく何時間もいるわけではないけれど、リタルには、ゆっくりできるという安心感がある。
私の贅沢で幸福なひとときだ。
 
私は今日は、リタルでウニのことを考えていた。ウニを食べたい。ウニクリームパスタとかそういうのではなくてウニ丼を食べたい。どうしたものかなあ。いくら北海道といえども、ウニは高級食材だから、そう簡単には口に入らない。それに中途半端なものを口に入れたってむなしいだけだ。
 
息子は、ウニの味を理解しない。年金氏とウニの話をしたことはないけれどおそらくウニのコスパをあまり理解しないのではないだろうか。元シャチョーは、といえばウニの後でキスを求められたりするのはまっぴらだ。
ああ私にはウニ友達がいない。
ウニは独りで、というよりも誰かと一緒の方がきっと美味しい時間が長く続く気がするので人と一緒の方がいいと思う。掲示板か何かで「一夜限りのわりきりおつきあい求む」と書くと、誰もウニ丼を割り勘で食べることだとは思わないに違いないし。季節のものを一度は食したいというのが私の数少ない信条のひとつだ。あとは他にどんな信条があるのか全く分からない。
 
 
そういえば、父親の入っているお墓の隣地は父方の叔母家族のお墓で、一体だれが入っているのかなんて特に気にも留めずにいて、そういえば叔母がもしや、と思いタイトルを見ると、平成23年の2月に亡くなっていた。母が亡くなったのが2012年の2月だからちょうど一年の開きがある。
実は、母が父に嫁ぐときにその叔母のせいでひと悶着があったと母から聞いた。それ以降も様々なことがあったようで、母にとってのいわゆる小姑である叔母のことを絶対に許さないと母がいうのを何度か聞いたことがある。いわば宿敵のような関係だったのかもしれない。
 
母はそういう人だった。誰かを「絶対に許さない」と言うような。確かに叔母については良い印象が、子どもの私にもないけれど。けれど、ふたりとも同じような時期に同じような年齢で亡くなったのが、私には少し衝撃的だった。悪徳だった人も清貧だった人も犯罪の人も無垢な人も嫌う人も嫌われる人も、違わないのだと私は強く感じた。
 
私の行動や気持ちを決定づけるのはおそらくそういう事実なのだと思う。母が今の私よりもずっと若い時分に大きな病気で手術した時も私は強くそう思った。一生懸命生きたとかそうじゃないとかに関わらず、なのだとあの時の私はそう思った。そしてそれから自分の行動が変わったと思う。
 
因果応報だとか以心伝心だとかを行動の規範として信じたいのだけれど、そういうふうには人生は回らない。
人は信じたい人間に常に裏切られるし、信用してくれている人々を裏切るのだ。
そこで、昨日書いた、信頼や信用を捨てると言う言葉は、この意味でも面白い考え方に思える。