角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

連休あけて。

 

3日は地下鉄を乗り換え、それから送迎バスに乗り継ぎ、母の墓参。
4日は都市間高速バスで元夫の墓参。
5日はプランターに種蒔き。
6日は散歩がてら公園の園芸市冷やかしとプランター買い足し。


空港に行って飛行機を見たかったけれど、いろいろの込み具合を考えると腰が引けて却下。wimaxの端末が届き、「シグナルの強さ 強い」と何も問題なく。年末にスルーしたベランダのガラス拭きもやっと終えた。図書館とプールには行かなかった。本を読むこともなかった。

腕と肩はこのまま固まってしまうかもしれない。痛みに馴れて諦めることはそんなに悪いことでもないと考えた。仮に首を回すとしても、ホラー映画ではないのだから、あるところまで回って、それ以上は誰だって痛くてできないし、痛むところまで無理もしないだろう。もちろん腕と肩は前はちゃんと動いていたのだから今が万全というわけではないけれど、以前できて今できないことなんか沢山あると思うので、あきらめも肝心だ。
着たり脱いだりという動作は考えた以上に一日の中で発生するので、それは不自由だ。屋内に入ってコートを脱いだり、暑いといって上着を脱いだり、肌寒いといってカーディガンを羽織ったりするいちいちが相当に辛くて内心ギャッと思いながらゆっくり動作するけれど、そういうことを子どもなんてのは傍にいても全く気付きもしないものだ。ましてや他人においてをや。
 
ということは、私たちが見逃している気づきもしない他人の痛みというのはそこここに在るのではないかと思った。ああブラジャーができないわ、なんていう表面的なことではなくて、第一、ブラジャーなんてしなくてもいいのだと気が付いたし。じりじりと絶望の際にまで追いやられていく他者の痛みに、気づいたところで何ができるんだろう。
 
テレビをしばらくつけていないので、ネットのニュースをみるまで東京で結構大きな地震があったことに気がつかなかった。どきどきしながらこどもの日のおでかけを敢行なさったご家族もあると思うし、忘れかけていた揺れに一日の気分を台無しにされた人だっていると思う。
 
はっきりとした絶望ではなくても、ゆるやかな絶望なのだと私は思う。私のような極めてしがらみの少ない自由な女だって、いくら暖かさに焦がれていてもそうおいそれと移住できないのだから、お仕事や家族や学校など簡単にふりきれない関係性にほとんどの人はがんじがらめだ。それに大阪ならいいってことでもない。私は、何か気が晴れるような言葉をさしあげたかったけれど、一体どういう言葉をかけてあげたらいいのか分からない。漠然とした痛みを内在させる人に。
晴天の日しかないと思うのは明らかに間違いだけれど、晴天の日にいつか降る雨を思いださせるのは、文句ばかり言って何もかも台無しにした母親のようだ。
いつか降る雨はあなたを濡らさないとは限らないし、あなたではないかも知れないし、しかし誰かが濡れる雨。
 
それで私は漸くみんな同じだと気が付く。雨に濡れる人もいれば、霰に打たれる人もいる。雪に降り込められる人もいれば、日照りに干上がる人もいて、いずれ刹那を生きるだけだ。一瞬のパルスのようなわたくしたちの痛みと命は。
  
お元気ですか、とふつうに聞きたいと思った。