角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

毎日忘れる。

 

昨年作った河内晩柑のママレードがとても良かったので、今年も作る。部屋が良い香りになった。
1個残しておいて、そっちはポン酢にすると、これもかなりいい。
 
買い足したプランターのために、朝顔の種を買った。アイスランドポピーの種も買ってみた。子どもが小学校の時に学校で鉢植えの朝顔を育てたようだ。その年以来ずっと朝顔は欠かさず鉢植えしたけれど、昨年途切れ、今年は復活というわけだ。
 
長いこと歩き、普段通らない道を歩くと、並木の桜は絶え間なく散っては吹き溜まるのだった。強い花色が、ほとんど白いはなびらになって、やがて跡形も失せる。
 
帰宅してママレード多めのトーストとコーヒーを摂る。鉢の底に敷く石を買い忘れたのに気づく。午後の園芸作業は中止だ。
 

私には昔、ともだちがいた。
 
代理店の独自媒体としてのフリーペーパーを編集していて、社内では特殊なスタンスだった彼女は、外部スタッフである私や、こないだ会ったデザイナーさんのプロダクションなど複数社がパーティションで仕切っただけの空間にひしめく雑居なフロアで、私の隣のスペースにいた。
同い年だったし、母一人息子一人という境遇も同じだった上に、全く正反対の影と日向のような性格でもあり、仲良くなった。
  
代理店がつぶれ、独立起業し、大変な努力と非凡な能力とでアート関係の会社を存続させている。彼女は多忙を極め、私は母を亡くしたり、専門学校に通ったりしはじめ疎遠になったものの、たまの電話で私の事情は聞かれたら話す。
 
冬に電話がきて、一日だけ会社の事務処理を手伝って欲しいというので、蕎麦店が休みだったこともあり手伝った。時間見合いのバイト料をもらった。
 
ほどなくしてまた電話があり、創刊したフリーペーパーの発送作業を手伝って欲しいというので、暇があったので引き受けた。結構なボリュームがあって二日かかり、終了後にかかった時間数を報告すると、支払いは今日でなければ駄目かと聞くので、駄目ではないと答えた。いつがいいかと言うから、忘れなければいつでもいいと返事した。
 
彼女は日向のようであり、私は影だ。そして私は、そういう時は必ず当日払いにするか、締め支払い日を明らかにするのが当たり前だと思っているので、彼女の気持ちが全く理解できずにただ困惑した。本当に分からない。
 
その後どうしたかというと、どうもしない。音沙汰はないし、私は自分からは言いださない。請求書を送ったりもしない。実はこれが初めてではなくて、何年か前、まだ私が以前の仕事を以前の仕事場でしていた時だから、アルバイトのようなものではなくて、普通の仕事だったのだけれど、そのまま忘れられて、私は言いださず、請求書も送らなかった。疎遠になったもうひとつの原因だ。
 
私は本当に分からない。

それからどうなったかというと、だから何もない。私は固定電話を捨てるのだし、携帯にかかった電話には出ないのだし。まちで行き会ったら普通に話すと思う。特に恨んだりとか憎んだりとかはしていない。だって、そんな人ばかりなんだ。あの広告代理店にいた人たちは、見事にそんな人ばかりだったから、別に憎むようなことでもなくて、問題はそこではなくて、私が思っているのは、やっぱりそういう人たちから全力で遠ざかりたいということと、それとおかしいのは一方的に彼ら、なのではなくて、私なんだということだ。
 
母は、そういうのを烈火のごとく怒る人だった。彼らに対してというよりも、私に対して。
私には別な気持ちのありようがあって、不誠実さの相手をしたくないと思ってしまう。今日でなければ駄目かと聞かれた時点で私は、もういいやと思った。
 
息を吸ったら吐くように、有形であれ無形であれ、モノやコトを買ったら払うというのは商売の真髄だ。「逆にいうと売ったら請求するのが基本だ」ということが言えるとしても、そんなことを言いだすのは、泥棒に入られる方が悪い理屈と同じじゃないかと考えてしまう。逆ではないのだ。相対はしないのだ。まず「払う」方が先にくる。

それで、当たり前をこなせない事態に相手をするのは何だか嫌なので放ってしまうのだけれど、それはきっと間違いだ。だらしがないというのは、彼らではなくて、私なのだ。だらしない上に、私は人に強くものを言えない。いつもそうだ。理屈をきちんと言おうとする前に、悲しくなって言えなくなる。文章だってそうだ、理路整然と書く前に自分の文章は感情を含んで重たくなって崩壊する。
  
もう自分のだらしなさには飽き飽きした。
昨日の馬鹿は今日の利口にはならないという言葉があるから、昨日利口でなかった私は明日も利口ではないはずだ。あしたは鉢の底に入れる石を買いに行こう。そして何を忘れるんだろう。