角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

コーヒーということ。

 
カップにじょうごを突っ込むと、じょうごはカップの中で斜めになってしまう。
じょうごの上に濾紙をのせて、透明のジッパー袋に入れてある粉を、スプーンなんかを使わずに濾紙の上にあける。煮え立ったやかんのお湯を注ぐと、斜めのコーヒーが出てきたりすることもなく、苦々しさも芳香も時間が醸すのだ。
 
去年ちょっとだけ居たススキノの店では、社長と2度目に話した日が辞める日だった。
「ヨメと娘がいる、昼夜が逆転するような生活」というようなことを、話の流れと関係がなく、単語をぶつけるように言ったっきり、あとは続かなかったけど、脈絡なく唐突に吐かれる言葉はたいていが本音だ。それで私は忘れられない。
 
三十代の彼は、蕎麦店の店長の後輩にあたる。彼はもう包丁を握らない。板前ではなくマネジメントを選択したからだ。だから「社長」なのだ。元の仲間とは方向性を早い段階で違えてしまった。
違うふうに進化を遂げたくて、少しこわい関係も取沙汰されるようになっていた。どういう関係だとどうなるのか私は見当がつかないけれど、苦労をして磨いた腕を、必死で捨てにかかっているように見えた。どうしたって夜のど真ん中で、あんまり足掻いて余計に深く沈む砂だ。
私は社長が、とてもこわくてこわくてそして悲しいのではないかと思って、その言葉を忘れることができない。
 
ようこさんは、ススキノの店をまだ辞めてないと聞いた。きっと、ようこさんは板前さんの一人が好きだ。だから約束の23時に帰れなくて、つい3時まで居てしまうと言ったけれど、朝の3時過ぎに板さんとお好み焼きを食べて帰る生活を捨てないのだろう。

いつか、ようこさんに接客は難しいですねと言ったら、ベテランのようこさんは、自分は平気だと言った。なぜなら「おきゃくさんって、どうでもいいじゃない?」と。それが彼女の深夜の過ごし方だ。
 
私は熱いコーヒーが好きだ。それで半分くらいになったカップのコーヒーを15秒くらいレンジにかける。
最後のほんの数センチを10秒くらいレンジにいれることもある。熱くて苦くてコーヒーの芳香があれば、必ずしもコーヒーでなくたっていいんだと思う。
 
 
知人のギャラリーの初日は、訪れたご婦人がお祝いにギャラリーに花を届けさせたいと申し出た。夫の小児科の名前でいいかしら、と大事なことなので2回は言う。花屋への電話口で声高に「小児科」を何度も言う。「小児科」とは、そう叫ぶことで彼女の人生を他愛もなくきらきらさせる魔法の言葉だ。
 
   
独りドライブをした先の、道の駅を思い出して、ジャンパーを着込んでコーヒーを飲んでみたら、ただの寒がりの女になった。
  
コーヒーを飲み干すと、そのまましばらくは放心してしまう。
「のようなもの」や「のようなこと」で私は自分の時間をドリップする。嘘のように私は自由だ。金輪際自由なのだ。
私は自由なのだから、小さく「小児科」とつぶやいてみても、私の人生はきらきら輝きだしたりはしない。