角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

D(笑)。

 
桜が咲いてしまった。一気に春になった。
 
ぼんやりと何をしていたかというと、火傷をしていた(笑)。煮立った蕎麦湯を、つい手にかけてしまい、もちろん言葉も声もださず、水でそっと冷やしてから仕事を続けたけれど、結構な傷痕になって、若い時分ならあとかたもなく回復したかもしれないけれど、きっとこれは一生残る。
 
毎日火傷をしていたわけではなくて、土も買った。気温が上がると体内の血もたぎり、何かを植えたい欲求がほとばしるからだ。休日はささやかすぎるプランター菜園もどきづくりにいそしもうと思う。
植木鉢にクラシックを聞かせていると前に書いたけれど、ほとんどの鉢をベランダに出したので、居間に残っているのは花の済んだ君子蘭と山椒だ。山椒はとても大事にしている。実を収穫したいというヨコシマな気持ちでいるせいだけど、ときどきいい具合に育った葉を失敬して、今朝は、なめこのみそ汁に3枚くらい使った。蕎麦店にもおすそ分けすると、たいそう喜んでもらえた。
 
この山椒の鉢もベランダにだしたいのだけれど、アゲハチョウがこわくて出せない。アゲハは山椒の葉が大好物なのだそうだ。目を離したすきに卵を産み付けられそうで、なかなか思い切って外に出せず、ベランダを開け放って風だけあてている。文字通り悪い虫がつかないように気を病んでいる親御さんの気分だ。
 
さて、火傷の話を書いたので、ついでに書いておくと、あのぉ、痛いです。
 
自分は痛いとか痒いとかを人に言うのは嫌いだ。第一話す相手もいない。そういうのは人に言ったって仕方がないことだし、楽しい話題でもないので言いたくもないのだけれど、かといって、自分が駄文日記に楽しい話題を書いているかというと全くそんなこともないうえに、昔、パソコンが絶不調で修理の人をお願いすると、修理の人がきたとたんに全く不調の影もなくサクサク動きはじめるようなことが何度かあったので、いっそ言葉にだしてしまったら全快するかもしれないと儚く願ってしまう程度に痛いです。
文章の前後関係がめちゃくちゃでも放って置くくらいに。

お正月休みに少し軽減するかもしれないと考えていたから昨年末にはすでに痛かったと思うけれど、いわゆる肩関節周囲炎だと整形外科のセンセは写真も撮らずに断言して、温熱とか低周波とかウォーターベッドのリハビリメニューは10回くらいこなしたけれど、それが治癒に結びつくとはどうしても考えられないのでやめてしまった。痛み止めの薬も飲まない。ストレッチのようなリハビリ体操の仕方を教えてもらったけど、痛いのでやらない。こういうのは、病人ではないそうだ。治ろうという気持ちがないのは病人ですらないのだそうだ。
いや、痛いので治りたいです。
 
でも、何か月もこのままなので、少し諦めの気持ちもまじってきた。腕が上がらないということは回せないということなので、水泳もできなければラジオ体操もできず、顕著に運動不足だ。
特に水泳をしなくたって生きていくことはできるけれど、これは例であって、つまり腕肩にかかわる動作が著しく制限されているというのは、なかなか不自由だ。一番困っているのはブラジャーができないことだ。後ろに手が思うように回らず、かろうじてエプロンの紐は何とか結べるけれど、ブラジャーは、今はホックのない、つまり色気もないユニクロの一体型を着用しているけれど。そういうのはつまらなくないだろうか。いや何となく。服の脱ぎ着にも時間がかかる上、昨年着ていた体の脇でボタンを留める服も着れない。
  
店長はときどき手がつると言った。やがて包丁が持てなくなるときがくると言った。M先生は今、肩の手術で入院中だ。包丁を落とすこともあるんだと言った。私も今の生活をしていなければこんなふうにはならなかったと思うし、長いこと休養すると軽快するのではないかとも思うけれど、原因を絶てば良くなると分かっていても絶てないことの方がはるかに多いものだ。原因不明の何十肩、というよりもオーバーユースだろうと自分では考えているけれど、それを言ったところでオーバーユースの最適な治癒方法はオーバーしないことだと思うし。
 
こんな風にして少しずつ少しずつ身体や頭の可動域が小さくなってくるのには万感迫るものがあるけれど、産まれた時のように何らのかげりもないままに年老いていくなら、もはや死ぬことすらできないだろうから、やはりこうやってじわじわ先細っていくのが良いのかもしれない。
  
ああブラジャーをしてみたい。
 
えーと、もちろん腕肩をいためていることは、誰一人にも言っていないので内緒に。