角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

木の芽どきどき。

 
あまりにも早くから引越しだのリフォームだのと心の中で騒ぎすぎて、ここしばらくはすっかり白けてしまって、今のところ、私は水状態だ。なにも考えてないし、なにもしていないし、借りてきた本は最初と最後を読んで返却した。こう書くと水に随分失礼だと思う。
 
何もしないことに慣れ切ってしまったのだ。怠惰そのものだ。三度のご飯がとても美味しくて困っている。
 
先日も書いたけれど、部屋に入れた途端に勘違い行動が始まって、今はもうすっかりその気になって止まらない。山椒は室内では育たない植物らしい。だから外置きが必須だけれど、室内仮置きから外に出すと、環境激変で枯れてしまうだろう。さてどうするかな。
 
ひとつ、そういえばひとつ覚えたことがある。暇に任せてガラス拭きをしたのだけれど、脚立というのは階段を上がるように使うのではなく、両側に足を乗せる、つまり足の間に脚立を挟むようにして使うと大変に使い勝手がいいことを発見した。脚立のプロに近づいたようで嬉しい。それともそれは常識なんだろうか。そういうときは、「ドヤってすみません」と書くらしい。ドヤってすみません。
 
ああそれからもひとつ。雑穀とか麦のごはんというのを今まで敬遠していたのだけれど、料理ブログの記事がきっかけで試してみた。

結果、大変美味しいので続けてみようと考えたのだけれど、白米はいつものように研ぎ、麦や雑穀は研がずに使う。そうすると水の分量を調整するのが結構面倒になる。あらかじめそれぞれのウェイトとボリュームを計測しておくといいのかもしれないけど。そこで私は気がついたのだ。こんな時、無洗米がそのソリューションになるのだと。無洗米を無礼ながら、横着な人の商品だと考えていたけれど。あ、無洗米の味については知らない。
麦や雑穀の価格がなぜ高くなっているのかは理解した。で、自分で自分を少しえらいなと思うのは、私が玄米にとびつかないことだ。うまく説明しにくいけれど、何かにのめりこまない、一途になりすぎない、飽きっぽい性分は、私を有能な人間にはしなかったけれど、そういう性質が逆に自分を守っているのだと考えている。
逆に言うと、業火を抜けたあとでなければ人は本物にならない。本物と言う言葉を使うのは本当に好きではないけれど、とりあえず。
私のようなのは、ちょっとした火傷も負いたくないのだから、極めて浅薄に世の中の多寡を括りながら生き延びている。それを「守られている」と言い換えた。
 
 
前に読んだ漆塗りの本に書いてあったけど、その人の場合は、修行をはじめて、ただちにかぶれたのではなくて、しばらくの後に、すさまじいかぶれがやってきたそうだ。それからまたしばらくすると、身体が慣れてしまうのだそうだ。けれど、何年経っても、ときどきふと、身体の奥深くから痒みの感じがうねるような感覚があるのだという。
これは読んでいてとても怖かった部分だ。平たくいうと固有の蓄積毒のようなものは、塗師ばかりではなくサラリーマンにも、どんな職業の人にもあるのかもしれない。文明はそういう毒を孕みながら拡大してきたのかもしれない。
 
うん、玄米から文明まで行っちゃった。ははははは。