角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

新人さんが叱られまくっている。

 

職場では、仲良しになる必要は全くないし、むしろ仲良しになるとルールに甘くなったりする弊害すらあると思うので、かといってやはりある程度は穏やかで和やかに休憩時間を過ごせる程度の親密さは欲しいと思っている。
 
新しい調理員さんがやってきた。誰かが誰かをいじめたり、という構図は「誰得」なので多分そういうことはないと思うけれど、1週間と経ってない彼女が叱られまくっていた。20年以上を老舗の軽食・喫茶の店で働いていたというベテランが、30代くらいの調理員にほぼ全部ダメ出しをされていて、若い子なら泣き出すんじゃないか、明日からこなくなるんじゃないか、という程度だったので、明日、彼女は来るだろうか。
 
一般的に、恐らく教わり方や、話の聞き方、返事の仕方などにも逆撫でする要素はあると思う。私は叱られるのが嫌いなので、その辺には配慮の人になっている。少なくとも返事が悪いなどという叱られ方は、生まれてこの方されたことがない。
 
職場での動きは、当初、まるで茶道のややこしいお点前のようだと感じた。儀式的というか、細部にわたり順番ルールがある。自分に関していうと、結果が同じであれば、好きなように全部広げて一気に完成、みたいな気分でいるので、しかもやってることは、言ってみればスプーンを数えるとかゴミ袋を何枚使うとか、ここではポリ手袋をはめるとか、幼稚園児にもできる類のことだ。
 
マニュアルはなく、各自でメモを作るという方針。教えられることの内容には、よくありがちな話だけれど、必ずしなければならないことと、気分的に配慮した方がいいことなんかが同時に語られるので、指導する人によって相違点があった。単純な作業が分刻みのごとくに次々とあり、例外処理が多発する。
例外処理に関しては幼稚園児には無理だ。
 
細かい作業の合間合間、いたるところに消毒が入る。消毒液をスプレイするのだ。大根おろしに使う大根は消毒する。まな板と包丁は殺菌庫に入っているけれど使用前に消毒する。落とした食器は消毒する。ふきんは消毒液で洗う。手を洗ったら消毒する。まるでスモーキンブギのごとくだ。
 
で、愚痴を書いているわけではないので、なぜ、微細なところまで順番があるのか私は不思議だった。つまようじを出してから洗米しようと、洗米してからつまようじを出そうとどうでもいいだろうと考えたからだ。書いてて恥ずかしくなるくらい下らない作業だ。
 
けれど、この場所では、これらの作業は必ず必要で、つまようじがなくては絶対にいけないことなのだ。何十人もの入園者の人に、きょうのご飯は失敗したのでありませんというわけにはいかない。
 
そして、気がついたことは、細かな順番を互いに順守することでミスを防いでいるのではないかと考えた。例えば、いつも私がつまようじを出す時間に誰かが洗米をするというタイミングだとして、そうでないタイミングの日があれば、どちらかが何かを間違っている可能性が考えられる。というような具合かな、と私は解釈したので、別に私のやり方に拘泥する必要は全くないのだから、その通りの順番で執り行うことに決めた。
 
何人もの先輩らが、何年もかけて作ってきた順番なのだから意味はあるし、ある程度は洗練されてきたはずだ。だから私に求められているのは、もっと素敵なやり方を考えることでもなければクリエイティブな洗い方を考案することでもなくて、ひたすら順番通り、今まで通り、言われた通り、を貫けということなので、そうする。だからこその時間給(の安さ)なのだ。ギャラ社よりは高いけど(笑)。
 
私の作業なんかは別にシンギュラリティの日を待たずとも今すぐにでも機械に取って代わられる。ではなぜヒトなのかというと、機械よりも安価な労働力であるから、なのではないだろうか。ヒトの価値について少し考えた。あるいは私の無価値について。