角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

シロクマの夢。

 
毎年の6月がこんなに暑いわけではないけれど、ここ数日、夏のように暑くて浮かれている。浮かれながらもずっしりと錘が入っているようなのは、とても複雑だ。
 
愚息があまりにも、のほほんとしているので悔し紛れに、実は私は7か月も前から腕肩を病んでいるのだ、どうだ、辛いんだ、不自由なんだ、まいったか、でも病院はイヤ。と言ってみた。言下に「話の意味が全然わからない病院に行くヨロシ」と言うので、意味が分からない話をする方の診療科へ行かなきゃいけないのかと焦った。
 
ぐだぐだ書いてきたけれど、言いたかったことは、「しかるべき診断手法を用いずに判断された場合の治療方法には、不信感があって従えない」ということだ。週明けすぐに別病院に行って思う存分写真を撮ってもらった。
 
そこらへんで一つ思ったのだけれど、お小さい人を病院に連れて行く場合は、嘘をつかない方がいいのではないかということだ。なぜ騙すのか分からない。だましだまし生きてるような自分が言うのもおこがましいけれど、人を騙したりするのは良くないことではなかったか。 子供は人ではないのだろうか。たまにそういう子供もいるけれど。
それにしたって弱い者や無知なる者を平気で騙そうとしておきながら、子どものため、だなんて言い逃れるのは酷い話だ。
 

 
子どもが小さい時分は、しばしば病院のお世話になることがあったけれど、注射が少し痛いこと、でもみっつ数えるうちに終わるとか、痛い思いをすることの意味などを言ってきかせてから出かけると、少しも騒ぐことがなかったと思う。みっつ数えるくらいを必死で耐えるので、そのあとで偉かったねくらいは言っておくのだ、この私ですら。
それをむきになって母も看護師の人も、痛くない、すぐ終わる、ちょっとだけ、と言うから、信頼は根幹から覆されて泣き喚くのだ。
  
私は特に良い母親というわけではなかったので、子どものため、ではなくて、泣き喚かれたりすると相当にうるさくて、自分が恥ずかしい思いをするのが嫌だった。
 
先生が、判断をするためにも注射をうちたい、と仰るので、2回も仰るので、泣くほど痛いわけではないですよね、と念を押した上で、肩に注射をされてしまった。私は母がいないので、泣いたりはしなかった。あ、帰りにシロクマを買えばよかった。