角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

埃舞う。

 

安部公房が件の人に聞かれて、日本の作家三人だか何人だかのひとりに太宰治をあげたそうだ。また、彼女に読むべき作家としてすすめた何人かの中に司馬遼太郎の名があったという。

それで私は自分のこれからが安部公房と司馬遼太郎だけでいいような気持ちになっていて、けれど良く考えたら一体いつ私は本を読むのだろう。これから先の一生をかけてもきっと読み切れないことに気が付いた。
なぜ太宰もいれないかというと、全部読んだからだ。たまに、作品の雰囲気とか言葉をおもいだすことがあって、先日も唐突に「千代女」をおもいだした。それがどうしたというわけではないけれど、実は、ここのところずっと家の中の整理にかまけていて、まだ収拾のつかない中にいる。
 
一体、自分の持ち物の整理や部屋のかたづけだの清掃くらい、セミナーにでたり本を読んだりと、いちいち人に聞かなくたってできそうなものだと思うけれど、なんだか怪しい資格商法みたいのがあるらしい。私のはただの終活的整理整頓兼大掃除だ。
 
不要品がすなわちゴミではないけれど、自分ちの場合はほとんどゴミだと思うのでゴミと暮らしていくのはあまり素敵ではない気がする。とりわけ不要なのは自分だ。洗濯機を連日のように回すと、洗濯機はこわれもせずに良く動き、洗濯機ほどの働きを自分がしていないので顔を覆って泣きそうになる。私には悲しいことがある。ひどく悲しいことがある。ぞっとするほど悲しいから洗濯機のせいにする。
 
ほぼ日手帳を2007年だか8年あたりから使っていて、捨てずに持っていたけれど、全部捨てた。もいちど開く用事なんかない。いつ何をしたかなんて、それほど重要なことではないし、大事なことは私は覚えている。忘れられることは忘れていいことだ。
数年に一度は本を売りたい気持ちになる。専門学校の教科書も捨てた。二度と開かない本を持っている必要もないと思う。それで他の本も売った。売った本は130冊あった。売れない本は捨てた。残っている本はわずかになった。
   
2冊あったバイエルも売った。家にはピアノがある。ピアノといったって電子ピアノだけれど。子どもが大学に入ってひとり暮らしをはじめる時に、それまであったピアノは彼が持っていったので、実家に帰ってきて遊び道具がないと寂しいだろうと、もう一台買って自宅置きにしたものだから、結構古い。
私はピアノなんて触ったこともなくて、指のホームポジションがあるということも知らなかったけれど、いつか弾けるようになろうとバイエルだけは買ってあった。

何もこなさずにバイエルを売った。デッサンの本も売った。自分ではそんなに好きではなかったけれど、絵とか美術の実技の点数が良かったので、いつかきちんとデッサンをしてみようと買ってあった。何も描くことなく本を売った。そういえばそれで千代女を思い出したのだった。開いてもいないドラッカーの本も売った。目次くらいは読んだかもしれないクラウドの本だとかクルーグマンの本もあったかもしれない。運転技術の本もたくさんあった。私が失くした本は私が喪失した未来だ。
  
あなたがすでに喪失したかもしれない未来を私は洗濯機のせいにする。