角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

私の大間違い。

 

小町にも感染症関連のトピが目立つようになった。さまざまなご意見の人やアクションの人がいる。ただ、個々人の行動について価値観の違いであるとか、正解がないというのは間違いだと思う。価値観の違いと言って迷惑行為が正当化できるはずもないし、正解がないというのは逆方向のことであって、我々のふるまい方には正解がある、少なくともそれぞれの時点での正解はある。解について考えたこともない人や、正解を理解できない人がいるだけではないか。
 


前に「生物と無生物のあいだ」という本がかなり良かったと書いたけれど、その福岡氏の記事が「動的平衡」というタイトルで朝日デジタルで連載されている。私はたまたまウイルスの存在について書かれた新聞記事を入手したが、大変興味深い。

ウイルスこそが進化を加速してくれるとある。遺伝情報は垂直方向にしか伝わらないが、ウイルスの存在によって水平方向に伝達しうると。それゆえにウイルスは進化のプロセスで温存されたとある。

個体の死というのは生態系全体の動的平衡を促進する行為であり、ウイルスを根絶したり撲滅したりはできないと書かれていて、ヒトに対する考察を別な角度から俯瞰するきっかけになる。

進化とは何かというのが昔も今も変わらずに自分の中では時々考えてしまうテーマでもある。

 

 

私はしのびよる気配にやや怯えている。
生態系に寄与するにしても個体の死はその個体にとって全世界の喪失だ。すなわち、感染症で死ぬのは嫌だ。こわい。と日々思う。


さて、職場には掛け持ちで仕事をしている女性がいる。こちらではなく向こうの職場で感染者が発生し、すぐさま彼女も2週間の自宅待機となったそうだ。なったそうだというのは、私の休日中の出来事であり、それを数日前に出勤したときに聞かされた。これは今までで最も身近に起きた話だ。

 

で、そのひとが所用があって職場に出てきたのだった。
震えた。


厨房にまで顔をだしたので、出てきて大丈夫なのかと聞くと、大変語気荒く「私は大丈夫だから」と仰ったので、それ以上何も言わなかった。先輩でもあるし。
けれど、どうしても嫌だったので、あとで同僚に言うと、あまり共感されなかったうえ、むしろ「大丈夫だよぉ」みたいな慰めを受けたり、いやに神経質な人認定されたりした。


なんのための自宅待機なのだ。
所用といったって他の手段はあった。来させたひとがいたのかもしれないし、自発的に来てしまったのかもしれない。私の職場はそんなにもゆるゆるでだらしなく危機感のないところだったのだ。
このような事態になると、共通認識がなかったり危機感の温度差があったりすると、話題にのせることがまるで政治や宗教のごとく職場にはふさわしくないものとしてタブー感すら感じられるようになる。共通の認識をブラッシュアップするのとは逆の方向に動くのだ。言ってみれば敗北に等しい。

わたしたちは皆、食べたもので出来ているのは当たり前だけれど、そのほかに金銭感覚や衛生概念や、危機感などを骨格としてもっているから、たとえば家族間などでも違いが露呈してしまうと大変切ないものがあるだろう。昨日まで仲良しの夫や妻が見知らぬ不可解な人間に見えるかもしれない。そういえば小町でもコロナ離婚という文字を見た。
つくづく自分がソロで良かったと思う。

にしても、この釈然としない感じをずっと考えていたのだ。私は自分が間違っているとは思えない。自宅待機の意味を間違って捉えているとは思わない。


しかし、私はやっとわかったのだ。私の大間違いについて。

私は、そのひとともっと切実に会話すべきだったのだ。他の同僚ではなくて、本人に直接あなたは間違っていると言えば良かったのだ。ノーマスクでやってきた先輩に。それならばどんな展開になろうと、私とその人のあいだの問題で済んだのだ。意気地なしの私はそれを本人に面と向かって言えなくて陰口のごとく同僚に愚痴ってしまったというわけだ。
いい年をして本当に情けない。つくづく自分が嫌になった。