角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

裏も表も。

 
地下鉄の、あの端っこのベンチに良く座ってる人がいて、頭と顔を隠すようにして身じろぎもしないで座っているので、こちらとしては辛うじてかすかな横顔からお爺さんなんだと言うことが分かるだけだ。
 
一日に何度か通ってもまるで瞬く遠い星のように、いや輝いてはいなかったけど、動かないのだった。それでも時々は違う人に場所を明け渡すことがあって、今度はやや若手の男性がやはり頭を抱えるようにして身じろぎをしないので、あの人たちはある意味星になった人かもしれないと思った。
 
先日は先輩格のお爺さんが当番だったのだろうか、うずくまっていて、先日までの黒いジャンパーではなくて明るい色になっていたので、あのジャンパーはリバーシブルなのではないかと思いを巡らせた。
 
 
満開の桜は何本かみた。もう紫の木蓮の見事な花も散った。ライラックが咲き始めた。あたたかくなると糠床は一日2回手をいれなきゃいけなくなり、誰にも必要とされていない糠床なので捨ててしまった。私だって毎日のように糠漬けに追われるような生活はしたくないものだ。ああいうのは、かあさんが生きていたときに作ればよかったんだと思う。私は親不幸の極みだと、ときどき考える。わたしを守ってくれたのはかあさんだけだった。それはもう必死に守りすぎるくらいに守ってくれたのだ。逃げ足の速さのようなものもかあさんが教えてくれたかもしれない。
 
逃げるということは、行動を伴う強靭な意思だ。捨てることだってそうだ。だから捨てて逃げる、なんていうのはもうとんでもなく強靭な意思の持ち主がすることなのだ。といったって強靭な意思でありさえすれば崇高だというはずもなく。

 
世の中で一番強いのは逃げる意思ではなくて、実は眠気なのではないかと思う。私がたたかっているのは実は眠気だ。もうマウスを持ったまま私は眠れる。箱猫のように眠りたい。毎日。