角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

二枚。

 

去年の今日、かあさんは生きていて、ちょうど意識が混濁して戻らなくなる手前だったし、私は3月の蛍をみたくてしかたがなかった。
 
仕事があるから家に戻っていいかと聞くと、目も開けられなくなってたかあさんが、何回もうなづいて、口の形だけで、かえりなさいと言った。気がした。それが最後のやりとりになった。
 
かあさんは私の「仕事」にこだわって、きをつかって、思う存分仕事をしなさいといつも言ってたけど、それは買いかぶりってもんだと思うんだ。印籠みたいに「仕事」という言葉に反応したけど、私は、そんなに大したことはしていなかったし、私でなければならないことなど、何もない。
 
おそれていたとおり、私は3月のほたるに、もう何の興味もなくなった。
 
ずんずんと忘れていくことが私の推進力だ。
 
 
強い悲しみだったとしても、半年経ってまだ同じように悲しかったら、それは病気だ、ウツか何かかもしれないと、公衆衛生の先生が仰った。
 
 
浅蜊はフライパンの上で命を手放す。蛤は鍋の中、昆布の陰で。
決然と次々と貝であることを手放していく。
 
歌うようでいて浅蜊は声をださず、雛のようでいて蛤は囀りもせず。
瞬くようで何も見ず、ときめくようで心ふるえず。
 
わずかなまぶしさのような浅蜊の離れ際に、私はかあさんを思い出す。
かあさんが手放したのは私だ。かあさんの意識の中から、私がすうっと抜け落ちた。
 
私は北寄貝にスパチュラを差し込んで、今しがた水を吹きだした二枚貝を切り離す。
北寄貝は、湯の中で、酔った女の耳たぶのような赤になる。
 
  

腐り始めるのだ、私の貝と貝殻の母と貝が含んだ時の砂を噛み。
忘れても忘れなくても手放しても握りしめても貝の中の、貝の外の砂を噛み。
 
 
私を抉れ 春の貝殻