角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

うらしま。

 

数えて見たら、今年に入ってから車を運転したのは20回にも満たない。通勤や通学の足ではないから、私にとって車は遊びだ。勿体ないので9月末で駐車場の解約を決めた。
 
運転するようになって初めて行った日帰り温泉に行く。同じ9月のことだ。出がけに私の横をN-ONEが通り過ぎた。乗りたかったな、と思う。だけどいつもノーワンと読んでしまう。
 
R275を通った帰り道、懐かしい古い会社の看板が目に入った。相当昔、ここの会社の試験を受けたことを思い出した。とても固い、かなり地味な、今も健在なところをみると、状態の良い会社なのだけれど、元夫のいた会社を辞めて元夫とつきあいだした頃の自分は、なんとなくその堅実さを回避したいような気がして、あなたに決めたというご連絡にお断りをして驚かれた。
 
そこで働いていたら自分の人生はどう変わっていたんだろうとぼんやり考えたけれど、自分が今ここにいることが、そんなに酷くて駄目なことだとは思えないので、ずいぶんとひとさまにご迷惑をかけたものの、どうしたって今が間違いとは言えない。子供がいるのだから「あの子を産まなかった自分」の方が良かったなんて、思えるはずがない。子供を正当化の楯にはしないけれど。
 

行った先の温泉は、道の駅になっていて産直野菜も売っている。西瓜なんかは、子供の頃、無限回数食べられると思っていたか、そもそも西瓜の回数なんかに思いを馳せたりしなかったかもしれないけど、こうやって、あっという間に夏が過ぎると、来年を含めてあと何回西瓜の顔を見られるだろうか、来年は含めた方がいいのか含めない方がいいのかとまで思ってしまう。たぶん極端に西瓜が好きということではなく、西瓜のある風景や西瓜があったときの環境なんかが好きなんだと思う。
 
私は冬は嫌いだ。寒いのは嫌だ。といいながら、寒さの中でしか生きられない。出来る限りの好き勝手をしたり、拒んだり、逃げたりして、求めてきたのは、そういう冷たい自由なのだ。
 
温泉のロビーでは、高齢ご夫婦が口をほとんど利かずに何となく寄り添って腰かけ、何となくの頃合いで立ち上がってふたりの家路に着く。ご夫婦はあと何回西瓜を召し上がるのだろう。
  
私は、ひとは自由を求めるものかと考えていたけれど、最近はどうも違うんじゃないかと思うようになった。だから、自由を希求してやまないようなひとを好きだと思ったけれど、実際はそんなわけでもないのだったら、みんな五十歩百歩だ。外に向かって、なんと様子のよろしいことかと、鳥かごの中で凭れあう。
 
かあさんが生きてたらなんて言うだろう。かごの中に入りなさいと私に命令するんだろう。かあさんだけが私を叱った。私は実はどっちに向かっていいか分からない。かあさんから見たら私はものすごく駄目なところに居るのかもしれない。私は分からない。

西瓜は買わなかったけれど、小さな南瓜を買った。パンプキンプリンを作る。ほろにがいカラメルソースのことなんかを考えて石狩川を渡り、R275を通った帰り道、懐かしい古い会社の看板が目に入った。