角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

自転車のこと。

 

清澄白河なのか白河清澄なのかはっきり覚えられなくて確認しつつ書くけれど。それに豊平とか菊水と言ったってエリアの持つイメージのようなものはまず余所の人には分からないのと同様、清澄白河がどういうエリアなのか私は知らない。前置き、長いけど、最近は清澄白河のビジネスホテルに泊まるようになった。もう何回か宿泊した。何しろとても便利だし、駅が大きすぎないのでそんなにたくさん歩かなくてもいいし、あのあたりにはインターナショナル学校(笑)があるようで、地下鉄では制服を着たお若いお嬢さんたちが実に賑やかに日本語と英語を全くシームレスに使ってお喋りするのを聞くのはとても楽しい。はい、さっぱり分かりませんが。
 
で、その清澄白河にブルーボトルができたので、今度上京する頃にはさすがに行列とかの混みようは緩和されていると思うので、寄ってみようかなと。珈琲界のサードウェーブだと言われているけれど、パソコンをさわってて気がついたのは、わたくしなどは、大きく分けるとパソコン界のセカンドウェーブ、つまりスタバに匹敵するのではないだろうか。
 
一番最初の世代というのはそれこそマザーボードを眺めると顔がほころぶような人の時代だったと思う。第三世代の現代はラインとかアプリの扱いに長けた世代かと思う。
 
余談だけど、自分が、ラインとかフェイスブックをする意味が全くわからない上、下手に手をだして気の進まない相手から万一友達申請などをされたらどんなに嫌かと思うと、とても始める気にはならないし、自分がいつどこで何をしてどう思おうとそんなことをいろんな人に知らしめる必要もないと思うし、むしろ知られたくもなければ、知りたくもない。ちょうどカラオケで歌うのも嫌なら、誰かの歌を聞くのも嫌、というのに良く似ている。
 
というわけで、その狭間、ずいぶん幅が広い狭間にある我々世代がセカンドウェーブだったのだと考えた。私は携帯機能も自在には操れない。買い物をすればレジの人になんたらアプリを持っているかと聞かれてもどういうことなのか分からない。いや正確には、分からないわけではなくて分かろうともしない、関わりたくないという気持ちになるので、そういう態度が自分自身の陳腐化を招くのかもしれない。
 
でもね、アイパッドで写真を撮っている姿はあまりカッコ良くない。アルマイトの弁当箱で水を飲んでるようにしか見えない。
 
店をやってるときに一度、会合の後でアイパッドを差し出されて、これで集合写真を撮ってくれと言われたことがあるけれど、なんだかこっそり赤面しそうになった。
 
そういえば店は、ずいぶん遠い話になって、最近ではそんなことを思い出すこともあまりなく、そんなことをしていたのも夢の中の出来事のように感じる。包丁を研ぐ時間もあまりなくなった。どうしてこんなに自分の生活はあっちこっちするんだろう。
以前、どうしてみんなが普通にしていることができないのだと「結婚生活」について言われたという離婚者の話を聞いて、まあずいぶんな言われようだと思ったけど、本当にどうして私はひとと同じように暮しを暮せないんだろう。ただ不思議に思うだけで、それが嫌とか好きとかいう話ではなくて、何故なんだろう。ただの平凡な女なのに。
 
 
まだ陽のあるうちに帰路についたので少し遠回りして最近気に行っているパン屋さんでパンを買った。買ってからダイエットのことを思い出した。とりあえず書かなきゃならない企画書のことはおいといて、ぼんやり過ごした。そして万一私が西表島にいくことになったら、足をどうしたものかと熱心に考えた。車はもう2年くらい運転していないし、忘れている。自転車は何十年も乗っていないので、これは今練習しても乗れるようになるんだろうか。自転車もないし、どこで練習したらよいのか分からない。仮に自転車があったとしても練習場所まで押していくのはとても間抜けな感じがするし。困ったなあと、ひたすら考えていた。

もうあまり行きたいところはないのだ。とりあえずマングローブのある離島と、いつもの出雲、東京とそれから金沢と、それからいろいろ美術館と、それに、やまほんにも行った方がいいと思うんだけど。それに屋久島と熊野古道と、鎌倉にもう一度、それから奈良にももう一度、。ああそういえば鎌倉の坂の上のお寺に行った時、私はとてもたくさん祈ったのだった。あのひとと仲良くなれますように、と。旅の間中、私はそのひとのことを考えていたし、考えながらの旅は悲しかった。でも悲しいことも振りかえると楽しさになる。だからとても楽しかった。私はいつまで旅を続けたいと思うのかなあ。