角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

晩秋散歩。

 

インターネットの時代になって、企業が広告宣伝費にかける費用も、使用媒体の比率も大きく様変わりし、そこから広告代理店という業種の凋落が始まったと捉えているけれど、であるなら、今、自分の店の広告宣伝を何も紙媒体に頼らずともいいのではないかと思う。店のドアにURLを大きく表示したので、そういうところからじわじわと認知されればいいと考えている。尤も通りすがりの視認以外に何によってサイトに誘導するのかは課題だけれど。
 

スタバの帰りに、遠くのスーパーに買い出しに行く。公園を抜けるのが近道だ。この春先から私の席、は決まっているけれどベンチに腰かけてややしばらく身じろぎもせずにいるのは、あたかも恍惚系のようだ。葉はもう散りだしてとまらない。リスだってちらりちらりとこちらを気にしながらも奔走する季節だ。                      
 
一体どうして美術館は、なかよりも外を覚えているものなのだろうと考える。道すがらや、建物の外側や庭を鮮明に覚えていて、なんの展覧会を見に行ったのかをよく覚えていないことがほとんどだ。
去年の雨の日を思った。竹橋駅の近くの美術館に行ったときの雨だ。雨の色やあたりの様子をすっかり覚えていて、何を見て、そのあとどこに向かったのかは覚えちゃいない。
 
公園のいりくちで、私は東京のまちがどうしてあんなふうにビルが林立してとても大変そうに見えるのか、いきなり分かった。それは道のせいだ。道が整然と碁盤の目のようであればどこまでも見通せるけれど、道路がくねっていたら視界の突き当りがビル街であることは不思議でもなんでもない。こちらはもちろん高層のビルなんかほとんどないし、ずっと遠くまでいくつもの信号を数えることだってできる。それはそれで素敵だけれど、東京に行きたいと思った。でもそれはくねった道のせいでもなければ、もちろん高層ビルのせいでもない。
何でもあって何一つ自分のものにならない街は、まるで食材に埋もれたまま空腹をかこつ自店のようだ。