角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

とりてん。

 

とり天というのは、天ぷら衣をつけて揚げた鶏肉だ。ポン酢と辛子でいただくと美味しい。そんなに難しいものではないし、ポン酢を自分で作っているので、それを使いたくて店のメニューに鶏天を考えた。
ちょっと話が長くなるけど。
  
作業工程は、鶏肉に衣を付けて油で揚げる。練り辛子を皿に、ポン酢を小鉢に入れてお出しする。と、これだけのことだけれど、店でのオーダー時点から考えると、オーダーを受けてから鶏肉を切ったりするのはナンセンスだ。だから切って置く。けれど、店の持ち時間が僅少である中、で完全に火が通るまで揚げるのには、もちろん何分もかかるわけではなくても、常に完全を目指すにはいささかの不安が残る。鶏肉の質的な問題もあるかもしれない。

そこで低温加熱を考えた。チャック付きの袋に入れた鶏肉を沸騰前の湯に入れてそのまま冷ますとゆっくりと熱が通り、柔らかな肉になる。かつ袋ごと湯につけそのまま冷ますことで保存時の衛生観点からも良好であると考えた。

次、まるごと加熱したのでは、やはりオーダーを受けてから切る必要があるため、切ってから1食分ずつ小分けし、それを加熱するとより効率的ではないかと考えた。

次、それだけでは何か物足りないので、肉に下味をつけようと思い、どの時点での下味が最適かを考えた。そこで、切った鶏肉にまとめて下味をつけ、適切時間の後に小分けして袋に入れ、それから低温加熱をするのが合理的ではないかと考えた。
 
オーダーが入ったら1つの袋に入った鶏肉に粉を少しまぶして衣をつけて揚げると良い。

しかし、問題はそれだけではなかった。オーダーは必ず入るわけではないから、何日も袋に入れた状態で冷蔵するわけにはいかない。そこで、袋ごと冷凍する。
そうするとオーダーを受けてから、冷凍した肉を解凍する必要がある。解凍には時間的に電子レンジ以外の選択肢が当店にはない。
そうすると低温加熱して冷凍し、解凍して揚げることになる。これは料理として妥当だろうか。適切だろうか。
あらかじめ何食分かを冷蔵庫中で解凍しておき、それから揚げるという手もある。それにしても工程は上記と変わらない。解凍をどこでするかの違いだけだ。
 
今書いたのは、低温加熱して冷ましたものをまっすぐに冷凍した場合の話だ。
かりに「冷凍から解凍」の作業をなるべく省くために、即ち、より良好な肉質状態で提供したいために、冷ました袋を冷蔵で何日かおくとして、その分のオーダーがなかった場合、それから冷凍することになる。これは味覚的にどうだろう。根拠のない言い方だけれど、なんとなく気分が良くないので、廃棄に回すことになる。
 
そういう鶏肉が何食分か今、店の冷蔵庫にあるので明日は廃棄する。
 
長々書いて何を言いたいかというと、店の商品は常に、どの状態まで下拵えをして、どの状態で保存・保管をし、どの時点で廃棄するかをあらゆるアイテムについて考えなくてはならないから、家庭で美味しく簡単にできる料理がそのまま商品になるわけではないということだ。
自分の家で料理をしていた頃は、冷凍も冷蔵も考えず、食べる分だけ作ればよかったし、2日目にはレンジで温めたり、せいぜいそんな具合で、日持ちがどのくらいするものか、という考えはほとんどなかった。これは本当に考えもつかなかったことだ。
 
固定メニューとして継続させるなら、なおさら商品の最初から最後までを組み立てる必要がある。どこまで仕込んでおくかは考えたけれど、保存や保管については誰一人として教えてくれないことだったので、もしどなたかが開業するならば、ここを一番に教えてあげなければと思う。まあその前に開業をすすめたりは絶対にしないけれど。
 
昨日はおでんを鍋一杯に作り、手伝ってくれている人に2人前くらいを引き取ってもらい、残りを大きなプラスチック容器にいれて深夜に持ち帰った。深夜なので少し試食しただけで、うっかり冷蔵し忘れたら今朝にはうっすらと黴が生えていたので全て廃棄した。黴が生えないとしても独りでは食べきれない量だ。売り上げはゼロだった。

だからといって月曜日におでんを作らないわけには行かない。食べ物がないのは飲食店ではないのだし。つまり盛大に作って盛大に捨てているのだ。こんな無駄があってよいものかと、本当に、どこかおかしいのではないかと思う。今時は、だからといって食品をむやみに差し上げたりしては衛生面だとかアレルギーの面だとかで面倒で、いけないのでただただ捨てるしかない。
 
鰹節をたっぷり使ったとても良い出汁をつくり、大根はきちんと面取りをして大切に茹でて、と何もかも丁寧に美味しく作っては捨てるのだ。容器一杯のおでんを生ごみ処理機にかけるとひとにぎりの黒い灰になった。
 
なぜ捨てるのかと言うと、もちろん、人が入らないからなので、その原因は商品以前の問題だ。

「勤務帰り」という通行がなく、人通りの絶対量が少ない。そんなところを自宅から近いという理由だけで選んだのは自分なので、誰のせいでもないけれど、しかし、来店客がないというのは、それだけの理由だろうか。来店しないのだから、料理や接客のせいではないと思うけれど、何の気休めにもならない。
それに第一、食べてくれた人はお世辞も含めてだろうけど、美味しいと言ってくれる。自分でも味は他店と遜色なく美味しいと思う。笑顔がいいと言ってくれたお客さまもいる。少なくとも仏頂面はしていないということだ。
けれど来店客がいないことには何か理由があるはずだ。そろそろ血尿の時期かしらと思うけれど、こういう時はじたばたと焦って軽挙妄動に走ってはいけないと思う。想定したターゲットが間違いなのは理解した。とするとコンセプト自体がこのエリアには不適切なのかもしれない。地域密着とかは考えていなかったけれど、ご近所のご家族・ご夫婦が来られるところを見ると、ますます日常の食である和食はわざわざ外食する店として適合していないのかもしれない。

これで生きていくという覚悟が足りないと人から言われたけれど、全くその通りだと思う。私には何の覚悟もないし、つまらなくて仕方がない。作った料理を食べてもらえないくらいつまらないこともないものだと思う。こんなんなら、とっとと紹介所でも行って結婚でもすれば良かった。「でも」を2回使う程度の結婚っておかしいけど、少なくとも作った料理位は食べてもらえる幸福があったかもしれない。
 
私はもう本当に無料でもいいから、食べて欲しいと思っている。肉にも野菜にもあらゆる食材に謝らなきゃならない原罪のようなものを抱えて生きていられるところまで生きていくので、まだ辞めないけど。