角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

服がない。

 

一日ずっと検索の鬼になって考えた。たしか朝ごはんの後で掃除をしたまでは普通の佳き日であったのだが。

昨年の春、衣類を大量に捨てたと書いたけれど、もしかしたらその前の年にも、その前の前の年にも、同じことをしでかしている気がする。
2012年の春は母が亡くなった直後にとにかく大量にいろいろ捨てた。2013年の春は良く覚えていないけれど、捨てたと思う。2014年の春はこれまた大量整理にあたった。
 
毎年の春にこんな大騒ぎをしていると本当に着るものがなくなってしまい、いくら閑居しているといったってほどがあるので、それで一日中、何を買うべきかを考えていたのだった。
 
いろいろな通販サイトを除いては欲しいものの画像をピックアップしてパワポに貼った。とても楽しい。ついでに価格もつけた。そうしておいて、そのあと査定をして、ほとんど却下したので、最初の楽しさが半減した。
 
私はこのところしばらく衣類をお店で買っていないので、なかなか億劫でもあり、どこに行けばいいのかというとユニクロとmujiくらいしか思いつかないので、面倒なので通販にしている。
 
好きなものを好きなように購入できるのなら、通販を利用しないかもしれない。と思うと、買いまわる人と、通販で済ませる人とはそういう違いがあるのかもしれない。もちろん数多くを時間をかけて比較できる楽しさが通販にはあるのでひとくくりにはできないけれど。 
 
結果、スピングル強し! ハイカットを予約注文した。それを買ってしまうと後はユニクロしか選択できなくなった。
 
今日、ギャラ社に行ったついでに中抜けしてユニクロの実店舗に行き、注文したものを見たのだけれど、買わなくてもよかったかなと思った。
 
ユニクロは、ずっとずっと以前に買ったTシャツの質が良くて気に入っていたけれど、いつの間にか、年ごとに生地が薄く、下着のような薄さになり、それを「レイヤードに便利な薄さ」とか宣伝していたので、ものは言いようだと私は感じたのだった。 
別にユニクロの悪口を言うつもりはないし、仮に悪口だったとしても、実際には購入しているのだけれど、かつて一度私が買った品物を母が見て、頼むからそんなものを着ないでくれと言われたことがあって、袖を通さなかったことがある。

母はその道の本当に腕の良いプロであったから、服へのこだわりは相当なものだった。私自身もこどものとき、生地や裏地やボタンなどを購入する母について行ったから、ものの良しあしが少しは分かるようになった。でも、好きなだけに頑固で、そのせいでむしろ今はどうでもよくなっている。
 
そんな話はどうでもいいけれど、昨年の大量整理というのは、もちろんただ捨てただけではなく、勿体ないので売ることも大いに考えた。これも相当な時間をかけて調べたのだが、まず既製品以外の衣類は引き取らないというのが大半だった。ブランドのタグが重要らしい。
その中でようやく、ノーブランド品も買い取るというところが本州にあって、ただし30着以上の条件はあったけれど難なくクリアし、発送した。買い取り価格については異議を申し立てないことにも同意した。
 
一応誤解を避けるために書いておくと、プロの仕立てというのは、素人が縫った服とは次元が違うし、通常の既製品をはるかに超えるものだ。そういうのも含め、ボール箱に詰めて2つ送り、しばらく経って振り込まれた金額は880円であった。着払いなので、妥当なところかもしれないけれど。それでも少し驚いた。

なぜこのようなことになるかというと、ある記事によれば、注文服は個人の体型に合わせて作っているから、注文であるがゆえに、持ち主の手を離れると無価値になるとあった。その時はなるほどと納得したけれど、それは本当にそうだろうか。
平均値の人がいないように、既製服そのままの体型の人もまたいないのではないだろうか。何かしらの不具合を既製服だから仕方がないとあきらめているのではないだろうか。だとしたら、条件は同じではないのか。
 
また、もうひとつ注文服が敬遠される理由がある。それはクリーニング表示がないことだ。今、表示タグのないものをクリーニング店に持ち込むと、何かあっても責任はとれないと言われる。ひと昔、ふた昔前ですら、そのような言葉は言われずきちんと洗っていただけたものについても。
何かある可能性が高いのは今の時代のあたらしい化学繊維だろう。だからこそ既製服には表示義務が課せられている。なんだか本末転倒している気もするし、良いものを守れない社会になっているような気がした。
 
もうすでに母が私のために縫った服は極めて少なくなり、一年に一度も袖を通さないものもある。
 
それは、かあさん、私はあの頃より少し太ったものですから。