角度ノート

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かあさんの鳥

 

病室の窓に山肌が隣接していて、湧水のような流れもあったりしたのだけれど、どのくらいをあの病院で過ごしたのかを私はすっかり忘れている。たぶん季節は一巡したのだと思う。
目も随分悪くなっているのに、窓から見える木々の一本の梢に小鳥が巣を作って卵をあたためているんだと言った。いつも言ったし、いつまでも言っていた。
 
一時的な幻聴幻視のようなものは、全く解消し、自身でも振り返ってあの時は少し変だったと言うほどに通常復帰をしたものの、鳥の件だけは、信じ込んでいた。
 
つまり、見たいものを見たのだし、信じたいものを信じたということだろう。
 
2008年に私は普通免許を取得した。
2009年は車を購入し、ドライブに夢中だった。この年に母と同居をはじめたと思う。
2010年はドライブ以上を望むようになり、旅行に目覚めた。この年にレギュラー顧客先Aを失い、担当部門自体が消失した。母の体調が極めてすぐれないようになり、通院やら救急車やらが日常的になり、母の介護に終始しようかとも検討した年で、自分の仕事を立て直すことを考えられなかった。むしろ仕事が薄くなったのを好機に母の面倒を見ようとも思った。
2011年、母が最後の病院に入院したのはどうやら春頃のようだ。この年にレギュラー顧客先B・Cを同時に失った。理由はさまざまだ。レギュラー仕事がなくなったのと、事実上のひとり暮らしになったことで、有り余る時間の中、やはり旅行熱は続いた。スポット仕事では多忙を極めることもあり、充実していると勘違いしていた。
2012年2月に母が亡くなり、私は調理師学校に入学した。従前の事務所を出て、新規事業をおこすという会社に賛同した。年末にはこれも消失した。旅行を何回かした。
2013年、私は調理師学校を秋に卒業した。旅行を何回かした。
2012年と2013年の仕事量は、生活を支えられるようなものではなかった。
 
こうやって考えると、私は母をだしにして、自分の人生を放棄したようなものだ。
 
私は母というタガが嵌められているといつも感じていて、とにかく遠くへ遠くへ行きたかったけれど、実は母のタガは私を護っていたのだと思う。
 
私は今ではもう時々しかしないけれど、時々はラジオ体操をして、必ず第二体操の時には私の大好きな人と、息子が幸福になるように健康であるようにと体操のフォームの中で祈ってしまうけれど、そうやっていて、私は、きっと母も、同じだったんだと、あっと思った。かあさんは確かにいつも私の幸福を願っていたはずだ。
 
そしてそういう一念が叶わないことを知ってしまったし、同時にそれは私の一念も叶わないのではないかと怖れさせることだ。
とりとめなく書いてしまったけれど、私は、私の見たいものを見ることができないし、信じたいものを信じることができない。なぜなら、私は自分の見たいものを知らないし、信じたいことが何なのかも分からないからだ。
まるで純粋と似たようなカタチで、私はびっくりするくらい何も知らない。
私も私の鳥か、鳥に見える木の節か、が欲しいけれど、鳥を知らない時に、鳥を見ることはできない。

知らない「鳥」は、しかし、どうでもいい鳥ではなくて、私の理由のひとつなのだから、人生は厄介だ。