「茶」の美は「下手(げて)」の美であり、茶の深さは清貧の深さである。と柳宗悦の本に書いてある。
「侘茶とはそもそも『貧の茶』であって『平常の茶』ではなかったか、利休にはそれが理解しきれていなかったのではないか。と宗悦は言いたかったのではないか」、とネットで探した記事にサイト管理者の推察も書かれてあり、大変興味深く、悲鳴を上げるような文章だと思いながら本を読んだ。
お茶うけはミントチョコレート。
工藝品であって、用をなさないものに美はないと言いきられて、すっきりした。認識は違うかもしれないけれど、何必館を訪れた際、魯山人の花入れに花が入れてあり、嬉しかったのを覚えている。
数行読んでは、ぼーっとしたりするので、時間がかかったが、自宅と学校とで読み切った。ぼーっとする中で思い出したことがふたつある。
昨年の春先にあちこちした折に、行きたくて仕方がなかった竹中大工道具館に行き、思う以上に相当に良かったのだけれど、一番気持ちに残ったのが昔の水準器だった。
もちろん本の話は民藝だし、水準器なんかは各家庭に3つも4つもあるというようなものではないし、性質の違う道具だけど、思い出してしまったので、とにかく。
ただ木をくりぬいた形のままの水準器の何が好きだったかというと、くりぬいた面が特につるつるではなかったことだ。
のみの痕がざくざく残ったままだったので、私は必要十分という言葉がとても好きなんだけど、無駄のなさとか合理性とかを具現化していると思った。
内面を鏡のようにつるつるにする技術ならもちろんある、でもそうはしなかった。
手を抜いた、というのとも違う、うん、なんかね、すごく良かったので、水準器の写真をひとに送ったけど、なかなかうまく伝えられないから何も書けなかったけど、解ってくれるとしたら、そのひとしかいないと思った。
もちろんそれで私は水準器を理解したとか、そんなことは言わないけれど、仮に何かを見て、直感することがあって、それをとりあえず「理解」と名付けるんなら、理解の仕方というのは、栄養素を摂取するごとく、拒否反応を起こしたり消化不良を起こしたりもせず、どこか予想した部位ではなくても何か身体機能や身体要素に加わって自分化することじゃないかと思う。赤面するような頓珍漢な思い方で思ったとしても。
もひとつ。
サツマイモを薄く切って焼いたかどうかしたお菓子に「初雁」というのがある。この写真を見たときは本当に驚いた。
なんという変態の国ニッポンであるかと、愛をこめてそう思った。
いわばサツマイモの煎餅みたいなのに、黒ゴマが数粒あるばかりなのだ。
本当にすごいと思った。初雁といわれると、雁にしかみえない景色なのだった。
妄想は妄想を呼び、侘び茶、貧の茶、長屋の花見、初雁にいきついた。
美の国を宗悦は作りたかったようだし、茶の先人はどうだったのだろう、茶の裾野を拡げるヨロシとか考えなかっただろうか、美の国、あるいは禅なる国とかを。それなら長屋の花見で結構ではないだろうか。
富貴の人々の玩びに移った茶道に、すでに茶の道があるか、あり得るかと書かれている。そうすると、だいぶ前に、駄日記でパトロネーゼなんて書いて悪かったかなと反省もした。
教室で宗悦の3冊目を読んでいたら、Sさんがやってきたので少し話す。Sさんは40代後半くらいなのだが、真面目で誠実な人柄が買われ、アルバイト先で早ければ3か月くらい後に正社員に、という話をされ、卒業後、路頭に迷うことなく安泰だと喜んでいた。
前にも書いたけれど、左官をやってて下手でクビになり、介護もやったけど、うまくいかず、それで調理師に挑戦した人だ。正社員になったら、結婚もしたいと言っていた。軌道に乗れそうで良かったねぇと話したことがある。
その後、仕事は順調かと聞いたら、人員削減ということで、あの話はナシに。と言われたという。
学校では今の時期、何度か大手ホテルや企業の説明会が開催されていて、Sさんも説明を聞きに会場入りしたところ、説明会に参加するのは自由だけれど、年齢的にみて、面接まで受けられることは絶対にない、と担当者に言われたそうだ。
人生に乗り遅れる人がいる。
彼だけではなく、クラスの若くない人たちで、余裕的年金生活者以外の人の中には結構そういう人がいる。乗り遅れたり、振り落とされたり。
統計だとか、分析だとか、数字の中に人の顔はない。努力がたりないだの、考えがあまいだの、顔をみないひとは、好き勝手に人の人生のあげあしをとる。
乗り遅れた人がお茶をお相伴してはいけないか。振り払われた人がお茶を点ててはいけないか。その清貧の茶室で、どこにでもある茶碗を以て一服の安堵を飲み干し、親に詫び子に詫びることも飲み干してなお温かく、陽の陰影有り難く、胡麻かと思えば初雁の、猫かと思えばそれは一斤。