ハマナス自体は、繊細だったり優雅だったり凛としたり洗練されたような花ではなく、素朴で逞しささえ感じるところがあって、そんなに大好きというわけではないけれど、ドアを開けるとすぐさま車の中にもハマナスの風が入り込んできて、目を閉じても幸福な場所というのは、そんなにあるわけではないと思うと、地味でなんにもない場所が希少で、年に何度か訪れる。
だから私は木道の先がどう終わるのか、場所の終り、を知っているけれど、今日の木道だけは、もしかしたら別な世界に続くのではないかと、毎回そう思う。
場所は終わる。
これは時の話ではなく、場所の話だ。時は終わらない。終わるのは場所だ。特別な意味を持った公園という場所、意味も名前も持たない原野とか海岸線という場所。場所を場所たらしめるのは時間だと思うけれど、終らない時間の中に終わる場所が在る。
旅ならば場所は当分終わらないし、その当分は自分の時間にとっては十分かもしれない。
ひばりが見え隠れする。土ぼこりから湧くように飛び立つ。
小さいシルエットだけの鳥がさえずる。私は鳥が好きだけれどバードウォッチングの趣味は全くない。鳥の気配はささやかな喜び事のようだ。
鳥は、そこかしこにサカナのようにいて、しかし地鳴く。
私が、さえずりでなく、地鳴きを聞きたかったとき、鳥は気配ごと、場所もろとも、飛び立って雲をよぎるときの影の夢だけを私に見せるのだった。
場所が在った時間の夢だ。
木道が終わる。ひとは帰ることしかできない。