角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

こんな日がいつかくるのは分かっていたけれど。

 
5月といえば蕎麦店に通わなくなった月だ。
自分にはテレビを見る習慣がなく、今は家にテレビがあることすら忘れているくらいだけれど、たまに見たテレビドラマが面白く、面白いと気づいたときは何年も続いたそのドラマが終わる時期だった。
それでyoutubeで検索し、いくつか見つけて見ていたけれど、実に、息子というのは悪魔のようであって、そうではない検索の仕方を囁いたのだった。そういえば2chを具体的に見せてくれたのも、当時中学生だった息子だ。彼はモナーが好きだった。
 
で、教わったように検索をすると、全シリーズが閲覧できるようになっていて、5月から毎日毎日私は時系列に沿って動画を見続けたのだった。もちろん話の全部が拍手喝采するようなものではなかったけど、続けてみていると、登場人物の事情だとか背景だとかが繋がってきて、ストーリーそのものというより、人物の関係性が現実味を帯びて面白くなった。全部で200話以上あったので、当初はまだまだ見切れないと焦ったりしていたのが、昨日終ったのだ。
 
自分のするべきことについて精進せず、ただ動画を見呆けていたのだから、自堕落な女だと思う。昨日はそれでも、さあこれでやっと仕事に向きあえるとか考えたけれど、ものたりなくさびしくて仕方がない。勿論、しなければならないことは山ほどある。
 
むかし、元夫が、借金でどうにもならない日々、眠りもせずに蒼白な顔でただひたすらゲームボーイで落ち物をやっていたのを思い出す。とても単純なゲームの中に埋没している時、現実を忘れたのかもしれないし、現実をどこかで考えながら指だけを動かしていたのかもしれない。そして多分、このままではいけないと考えて、それでも指を動かしたり盤面から目を離したりできなくなっていたはずだ。
 
私は少し似た性質があるから分かる。つまりものすごく後悔しながらも見てしまう、見るのをやめられなくなる、ということだ。のめりこむときの気分のようなものを私は理解できる。だから彼だけが、あちら側に堕ちた特別な人間だ、とは思わない。
 
5月の前は、私は自宅に戻ると、すぐにゲームをしていたんだと思う。パソコン上での単純なゲームだ。疲れ切って帰ってきて、ゲームのような全くそれまでとはちがう時間を一旦くぐってからでなければ一日が終了しなかった。そして蕎麦店では、なにものでもなく、現実世界でなにものでもない自分がささやかに勝てる世界というのがゲームなのだと思う。それでバランスをとっていたかもしれない。
そういう時間の無駄遣いを一方では激しく嫌っているから、当然葛藤は生じたけれど、自分には自分なりの常習的習慣からの抜け出し方、というのがあって、それはとことん飽きるまで続けることなのだった。
 
そろそろ自分が飽きてくる気配があり、どうでもいいやと思える頃、ああもうどうでもいいと思うことでぷっつりと止める。そしてそれきりだ。そんなにたくさんのだめな常習的習慣があったわけではないけれど、多分私は自分の飽きっぽい性格に救われている部分があると思う。サプリメントのようなものについても、化粧品についても、私は飽きるので、それが幸いすることって大いにあると考えている。
 
私は、見るドラマがなくなったさびしさを明日には忘れるはずだ。
 
そして、私の駄日記は、誰かの連続ドラマになっているだろうか、いないだろうか。一行の詩も書かず、一冊の本も読まず、一枚の絵画も見ない、私のドラマは。