角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

風四月

 

4月開講の生け花教室に通ったことがある。
和服姿のセンセーとアシスタント女性のお二人で、初歩から教えるのだという。

数回通ううちに、どうもセンセーが私を蛇蝎のごとく嫌っている気がしてきた。
 
私は20代だった。特に醜悪な容貌ではないし、生真面目すぎて愛嬌を失うところはあったけれど、不貞腐れた態度だとか、遅刻だとか、反抗的な言葉だとか、要するに嫌われるような態度はとらないのだが、どういうわけか、全く教えてもらえない。
月謝もちゃんと払った。

目立つタイプではないから、人数が多いときは、まあそういうこともあるだろうと諦めたけれど、たまたま2人しか出席者がいないことがあった。もう一人の生徒には熱心にご指導し、それが終わると、アシスタント女性が大層気遣ってくれて、こちらも出来ていますとか、センセーに水を向けると、アラソオとか言って見向きもせずに、教室を出ていった。講座時間の半分も過ぎていなかったが先生は戻ってこなかった。私もそれきり行かなくなった。なんだかオロオロしたアシスタント女性を気の毒だと思った。

今ならセンセーに対して月謝ドロボーとか、理に叶った言葉を言って差し上げることはできるけれど、何分、若い娘の頃だったので、ただただ訳も分からず悔しくて悲しくて、母は私を飽き性だと叱ったけれど、理由は言わなかった。
今でもたまに思い出して考えるけど、何故だかやはり皆目見当がつかないので、わけのわかんない流派とかいますぐ絶滅しても全く構わないと思う。

だから、お茶、こっちもカルチャー系だったけど、お稽古に通おうと思いたったときは、またそんな目に合うんじゃないかと懼れた。いいかげんトウがたってくたびれた頃だったけど。


面倒なのでいろいろ端折ると、人は人に心を教えることなんかできない。おそらくできない。だったらカタチだと言い切ればいいんじゃないかと考えた。何をえらそうに金銭授受して心を教えるとかいうんだろう。

誰が書いた本だか忘れた、というより、5歩くらい歩いて本を調べにいくのが面倒なのだけれど、能楽の友枝喜久夫について、彼はいろいろ話さないというようなことを書いていた。能書きだの一家言だのも語らなければ、舞うときの心境なども語ったことがないのだという。別の本では、友枝喜久夫は、完璧なカタチをつくる、けれど本人は何も考えていないのが見て取れる、彼はなぁんにも考えてないのだ、というようなことが書かれていて、大変興味深かった。

で、誰かがお能を舞って、完璧なカタチをつくるんなら、それは本人か天才だ。天才に心がないなんて一体誰が言うだろう。