角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

夏休みもあとわずか。

 
「しないべき」とかバカなことばのついでにもひとつ。極めて個人的に「ジョンとレノン」と言って遊んでいたら、ひとまえでも使いそうになって困っている。
 
 
そこかしこにいる賢そうなママたちを私は少しこわいと思っていて、先日もせっかく知事公館の森でパンを食べながらリスを探していたら、隣にやってきたママったら、まだ舌も回らない小さな子に向かって「ママが話したら、必ず返事をしてっ」とコマンド発言をしていた。いやだいやだ。そんなの。私はそんなこと、かあさんに言われたことはないし、こどもに言ったこともない。
 
動物園にいて、さりげなく、シャドウイングのごとく動物の名前を英語で教えてみたり、先日のプールでは小学校低学年のこどもに必死で大声を出して腕のまわし方、水のキャッチ、を教えていたママもいる。 
  
 
私は楽しかるべきときに、「とってつけた教育・躾・知育ぶり」みたいのがいちいち顔を出すシーンがとても嫌だ。
基本的には学習は必要だし、もっと詰め込む必要があると実感しているけれど、遊ぶときは楽しい方がいいんじゃないかと思う。ごはんを食べるときも。
大体、ごはん時に叱られたりするのは本当にせっかくのごはんが楽しくなくなって迷惑なことだ。
 
それに、よりたくさん詰め込むには器を大きくしなきゃいけないんだと考えている。
 
あ、器と言えば、ギャラ社での展覧会のために読んだ漆の本に書いてあったけど、飯椀というのが結構大きくて、それが暮しが豊かになると、だんだんと小さくなったのだという。なるほどと思った。大きな器にいれるのは、ゆるゆるのお粥のようなものだからだと私は解釈したんだけど、違うんだろうか。今考えると違うような気がする。まあいいや。
 
 
で、そんなふうなのが、目につくのは、自分が平日の日中に遊んだりしているからなので、急激にそういうママが増えたわけではないと思うけれど。
  
パパだってそうだ。
  
カフェでくつろいでいたとき、なんだか私の椅子にコツンコツンと当たり、意図的なものを感じて振り替えると、ベビーカーを押したパパが通路が狭くて通れませんよ、という意思表示にぶつけているのだった。仰天した。口がないのかと思った。
私の方は背中に目がないので、全く気付いていないし、第一そんなに椅子をせり出して珈琲を飲んでたわけではないのだから、その陰険さは目を見張る。一言いったらどうなんだと。
 
今が過渡期のせいかもしれないけれど、ベビーカーを押したり、子供の手をひいて園に向かうらしいパパたちの中には、赤ちゃん言葉で話をしたり歌を歌ったりと、やかましい。普通でいてほしいのだけれど。
父と母は同じなのか。子供の世話をする父親は母親にならなくてはいけないのか。そしてその時に女性的な陰険さまでを引き継いでしまうようなのは、本当に勘違いも甚だしい気がしたし、父親には父親にしかできないことがあるのに、なぜ育メンが母親化しなくてはいけないのか全く理解できない。
歌って歩かれるのは、うるさい。仕事で引率している保育園ならともかく、父親は父親らしく、とかいうとそれも差別とか。
 
なんだかみんな夢中になって完璧な親であろうとして自分の子供だけは一流と言われるカタチに嵌めようとしているようで、それを親の愛情というのだとしたら、社会的には悪質な気がします。ええ。
 
私は、親にできることなんか、そんなにたくさんはないと考えている。思いあがるなと。
 
だから自分の両親が完璧ではありえなかったことも、それで普通だと考えているし、それでも私は家庭教師も塾も通信教育も一切なしに独学(笑)で大学に行った。で、今、皿洗いの面接すら断られると。
アイデンティティが崩壊しない方がおかしいくらいだと思う。でもこんなもんかなと思う。おかけさまで私はそう簡単に崩壊はしないし、それこそが父と母が私に遺したかった「教育」効果なのではないかと思うんだ。独りで発想できることと、発想の転換ができること。みたいな。
 
ま、負け惜しみかも知れませんが。