角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

はまなす公園に行く。

 

通りすがりのブログのタイトルに「取り捨て選択」と書いてあったので驚いて二度見して、なかを読むともういちど「取り捨て選択」と書いてあったのである意味すごい。


小町のトピだったか、晴雨兼用をなんと読むかというのがあって、意味が分かるように、はれあめけんようが良いのではという意見が予想より多く呆れた。
せいうけんようを晴雨兼用と理解すればそれで済むことを勝手に決められても。
最近読んだ本では、著者が、ワタシの造語ですが、とことわって「一見化=いちげんか」という言葉を多用していたので、まだ読み切っていないけど、どうしたものか。勝手な言葉を使って本にされても困る。ほかの、あまたある言葉で説明できないとは、どういうことなのか。私んちの隣の奥様なら、なにさまだぁ、とお怒りになると思う。
 

  
さて。
車のある時分はかなり頻繁に行っていた、はまなすの丘公園は、車なしではいけないと思いこんで、あれ以来行ってなかったからもう何年になるだろう。
終点で降りて20分くらい歩けば良いという情報を得たので、お昼頃スタート。
 
すでにススキが育ちきっている。でたらめに揺れるところも好きだ。
 
木道には、未来感、というかそういうのがある。未来感というのが変ならば期待感のような。永遠に続いているような気がするのだ。歩いている限り歩き続けられるような幻想を抱く。
 
そーかー、尾瀬に憧れるのは木道のせいかもしれない。私は木道が好きだ。検索するとたくさん画像がでてきたので、日本中の木道を歩きたいと、今思いついた。木道マスターになりたい。
 
散策のあとは、建物のなかで珈琲を飲む。なんて幸福なんだろう。近場では、恐らくどこよりも一番好きな場所。素敵要素もこじゃれた要素もなにひとつなく、はまなすはとうに結実し、雲雀もさえずらない。ただただススキがゆらいで、秋の虫がなくばかりだ。今日は大凪。
 
 
ところで、さっき読んだ記事で、もう字面に飽き飽きしてるけど、男女平等云々がのっていて、実に、心から、くだらないと私は思う。なぜ「平等」というものがあると思うのか。
っていうか、私が嫌だと思っているのは、人は平等にはなれない、みたいなことが暗黙知のように前提されていて、それなのに「男女」をもってくるのは変だろうということだ。
どうせ、ありもしない平等を焦がれるならば「人としての平等」をいうべきなんだと思う。
 
最近はなんだかいろいろ不都合なことがあったりして、巷間でいわれるところの「一生懸命がんばった人や成果を上げた人が報われるべき」みたいな論理も、眉唾もののような気がしてきた。関係なくないですか。どうしてそこを関係づけた論理展開をするのかちょっと意味不明なんだけど。
かくあれかし、って人間が世迷言のように考えただけの論理なんじゃないのでしょうか。
実際はそんなこと、何の因果も相関もなく、同じ土俵で語ることでもないような、ということを考えてしまった。
 
 
ん~。何度口の中で唱えても、なかなか破壊力がある「取り捨て選択」。個人的に流行るかもしれない。こないだまで、「しないべき」というのが異常に可笑しくてブームになった。主にそれは私と息子の会話のなかで「しないべき」と言っては、ふふんと笑っていただけのブーム。
利口そうじゃないなあ。