角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

乾式

 
サザンカンフォートを初めて飲んだ時のことを忘れない。
弦楽器のようだと感じた。首から腰へ、力を込めてゆっくりと弓でなぞられ、弦がのけぞって奏でる音で、二十代の私がはり裂けそうになった。
ススキノのその店は、とうに無いが、強い香りの音のようなものを思い出すことがある。
 
とてもきれいな目をした男が、実際のところは、目のきれいさほどではなかったりする。
人はときどき全く逆に見える。凄腕に見える人はやっぱり凄腕であることが多いけれど、もっと辣腕度が増すと、むしろ素人っぽく見えるというようなことを言いたいので、それは、意外性というのとは少し違うような気がしている。

人柄だってそうだ。なんだかひねくれたっぽい感じの人が実はまっすぐすぎる所以であったり、皮肉な人の含羞も私は分かっているつもりだ。自分が一番自分自身を良く分かっているというのは、間違いじゃないかと思う。
 
その人の書く論理の文は比類なく上質だけれど、気持ちを書くのは得意ではなかったのかもしれなくて、ちょっと青くさいと言えば、そう言えなくもない、わざとらしいと言えば言えなくもない、気取りがあるといえばある、という感じで、日々の感じを書いた文だったけれど、「木の葉を隠すなら森の中」というと少しずれてしまうし、第一、隠そうとした文ではなかったし、その上、私自身の強い思い違い・思い込みってことだって良くあるけれど、だからといって、弦をひく弓のようなものがその文にあってそして奏でた音すら嘘っぱちだと言うことはないもんだと思う。

二十代の時のようにのけぞらせることはないにしても。
それが本当であっても偽りであっても。
うねりは私のものだ。
 
その数行の乾式の文を核心であると私はそう思ってしまったから、
私は休業のように開店して店じまいをしない。
「悲しみに似た」ものなどないと私は思うけれど、「似た悲しみ」というのもないのだろう。