角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

休日は、あっという間に終わってしまう。

 

週1で、ちょっとした処置のために通院していて、その帰りに近くのスタバによってコーヒーを飲んで小一時間を過ごすのが楽しみの一つだ。濃い苦い、もとい、苦い濃いが好きだったけれど、最近は少しきついと感じるようになった。来週は薄目のを注文しようと思うけれど、そろそろ通院も終盤だ。
 
ATM機を利用しに、車椅子を押したご婦人がやってきて、車椅子を具合よく動かすいちいちの動作のたびに「よいしょ」と言うので、何度も「よいしょ」が聞こえたのだった。
「よいしょ」というのは、自分へのねぎらいの言葉なのだと何かで読んだ記憶がある。ご苦労をなさっていて、辛くても辛いと言えないのだろうと、妙に納得した。何度でも「よいしょ」と言って過ごされると良いと思ったのだ。晴天のあたたかな日和だった。
 
 
残念ながらあまりニュースを見聞きする時間もなく、休みごとにNBOにちょっと目を通すくらいなのだけれど、記事もさることながら、むしろ自分はコメント欄にとても興味があって、はなはだしいときはコメントしか読まないこともあるけれど、好きな文章に出会うことがある。
「~いい時のいい状態な気持よさだけを人に求めて生きるというのは人生を買春だけで生きるようなものです。あまり美しくないです。」とあったので、するりとこういう文が書ける人はすごい。
 
ずいぶん以前、私の知ってるブロガーと言っていいかどうか分からないけど、そういう人の中にクラッシュ3という人がいて、多分彼ならこういう文章を書けるので、もう彼の文章に触れることができないのは生きていることの苦痛の一つの大きな要素になっている。古い文章や言葉で満たされることは、ない。たとえば、あべこうぼうを読んだりするときとは違うのだ。


私は、としをとっていく生身の人間の言葉がどういうふうに変化したり、変わらなかったりするのか知りたいし、時点の切り口だけというのはそれこそ先のコメントのようなことなのかもしれないと思っている。それに、私にとっては彼の文章は誰よりも良かった、ということではなくて、比べることができないものだった。文章は人だ。

これは私の「よいしょ」かなあ。