角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

だしおしみ。

 

えーと、店が始まって以来、特に楽しいこともないけれど、小さいおねえちゃんではないので一人夜中に泣いたりなんてしない。一度も涙を流していない。まあ当たり前だけど。で、「もうやだ死にたい」とかいうと、ほとんど毎日死んでなきゃならない感じなので、飽きた。
 
原因はただひとつだ。私は自分を信じることがちょっと難しくなっている。
今までなら、強く自分を信じていたのだ。どんなことがあっても、どんなふうであっても、私自身は、ぐれたりはぐれたりしないで、時々脱線行動があるかもしれなくても、おおむね真っ当な社会人として生存していくことを信じていた。もちろん今だってそうだけれど、それとは別に、仕事的に自分を信じることができない。
 
自分に自信がもてないと、人から言われるさまざまに、極めて混乱する。高いと言われ、安すぎると言われ、コロッケが欲しいだの、グラタンがあってもいいだの、アイテムが足りないとかアイテムが多いとかてんでに好き勝手を「私のために」言ってくれる。
少しで十分だと言う人と、ボリュームが足りないという人、もう少し濃い味を好む人と、薄い味を好む人を同時に満足させるわけには行かないので、もういい加減にしてほしいし、善意ってなんだろうとも考える。善意とは無責任の言い換えではないかとも思う。
 
一度目の来店時に、柿の白和えをお出ししたお客さまが、その味が良かったからといって再来店なさった。これは本当に嬉しかった。白和えは、たかが豆腐という料理ではなくて、きちんと作ると相当に手間がかかる。見た目はあれだけのものだけれど、豆腐をしっかりと水切りしてから裏ごしし、さらにあたり鉢を使う。隠し味に胡麻も使う。
その時は随分くたびれたので、きちんと味を分かってくれる人がいて報われた気がした。
 
けれど和え物は作り置きがきかない。食する直前に和えるのが美味しいから、前もってまぜたりしてはいけないのだ。かつ豆腐の和え衣は足が速いから翌日も翌々日も、というわけには行かず、結果多大なロスを生むために、もう作っていない。
 
そうすると、なんのために料理を作っているのか分からなくなる。やはり、どうしたって家庭料理にまさるものはないのだと悲しくなる。自分には家庭がないから、夢というならば、家庭で家庭内の人に料理を作りたかったと思う。それがどんなに幸福なことか、主婦とかいうひとたちには理解できないのではないかと考える。
 
身体的には勿論相当にこたえるけれど、大体慣れた。自分の生活、というのを捨てると良いのだ。ちょっとした食器も鍋類も全て店にもっていった上に、食材を買い置きしても時間がないので家では何も食べるものがなくなった。こういうのを家とは呼ばない。本の一冊も開けない日々を生活と呼ばないのだ。
 
 
 
昨日、遅くになってから、以前パソコンや通信全般を頼っていた人が来てくれた。非常にドライな仕事をする人だし、もう私は彼の顧客ではなくなったから、来てくれるはずもないと思っていたけど、全く野菜を食べないという彼は、野菜を食べられる人間も、と言って部下を連れてきた。そういう心配りをする人だったんだと驚いた。
 
日中は今まで通りの仕事をこなし、夜は深い時間から始まるバーをススキノで始めた。さらに都下および台湾方面にも関連の会社を持つ有能な事業家になっていた。見た目はかなりススキノ寄りになっていて、なかなかこわい感じだけれど、私は彼の父親と同い年だ(笑)。
 
そんな風に、お世話になった人たちに感謝して少しでも美味しいものを食べてもらえたらいいと思う、私は今までの恩返しをしなきゃいけない気がする。こんなに我儘を通して生きてこれたのも過去の顧客やサポートしてくれた人たちがいたからだ。
 
と思いつつ、昨日はつい、もう誰も入らないだろうと出汁を切らしてしまい、迷惑をかけたのだった。本当に態度が悪いと自分のことを呪った。