角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

あと数時間したらまた雪かき。

 

松江の美術館に行った時、工芸展に長着の展示もあり、染めや織り、刺繍などのみどころがあった。
色研ワークの折り紙とか、印刷色見本みたいな短冊とか、小さい色の紙を持ちつつ見ることができたら、さぞかし楽しいと思った。帯と帯締めの色合いを自分なりに想像するために。
 
自分は着物の色のかさね方とか佇まいを好きだと思って、もうずいぶん昔になるけれど、お茶というせっかくの機会もあることから、着物を着ようと一念発起したことがある。着付けも習ってなんとか帯が解けない程度には着れるようになって何回かお茶の稽古に出かけた。
が、着物について少し分かってくると、途端に恥ずかしくなりだした。車の運転に少し慣れると怖さが分かってくるような感じで。
 
着物には随分多くの約束事があるようであり、その事細かなルールを楽しむ文化なのだと思う。その制約の中で「自由を振る舞う」のが粋であるような気がする。
それを着物機会を広めましょうといってミニ丈だの服の上からだのレースのリボンだのは、下品で幼稚な仮装大会のようで、ちょうどヨサコイソーラン祭りのコスチュームのようで、伝統文化の継承にもなんにもなりゃしないだろうと思う。
 
じゃあどれだけ私が着物をたしなんでいるかというと、たしなんでません。
 
お茶から遠ざかるのと同時に着物からも遠ざかった。それが理由のひとつ。
 
もうひとつ、人に言ったり書いたりしてはいけない理由がある。
仕事や行事などの必要性からではなくて、ただの町歩きに「着物でお出かけ」なんていう人々は、どこか勘違いの臭いがするようなことに気付いたからだ。少なくとも私が出会った限りでは。ごくごく少人数だと思う。それ以外の方は立派に美しいと思う。たぶんきっと。

昨夏も、地下街で、そぐわしくない風情の浴衣嬢を目撃し、瞬間的に「夏場所」「巡業」という言葉を思い浮かべたりした。
自分も調子に乗って、着物姿で珈琲屋さんに出没したりしたことがあるので、今思うとぎゃっと叫びたくなる。
 
自分に適合しない生活スタイルはおのずと淘汰されていく。昨年はひそかに集めていた着物類や帯を処分したが、どうしても捨てられない帯が2、3ある。染め変えて仕立て直して、一度も袖を通してない長着も一枚ある。どうしたもんかなあ。
   
ああそういえば、たすきがけの練習を熱心にしたこともあった。梱包用のひもで。
私が捨てた時間と捨てられた時間が縦横して、大バカ者を紡ぐ。
 

夕刻に入り、さらに猛吹雪。雨を見るように窓を開けて雪を見る。
見ている分には、やはり凄くて見飽きないものだ。