角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

第何回だったか春の院展 

 

私はおつかいが嫌いなので、あちこち用を足しながら4時間くらいも、まちの中を徘徊したら、ぐったりした。 引っ越しの時はお目にかかれなかった元ビルの社長にも菓子祈りとともに出向き、挨拶をしてきた。 
 
挨拶は大事だと思うし、大事にしている。したくない奴にはしないという方向で。 
 
ああそういえば、あのひとはとても誠実だったけれど、相手に興味のあるうちだけは誠実だと言ってたんで、そういう言葉はずうっと後から効いてくる。麻酔なしでえぐられるように効いてくる。
どのくらい効いてるかというと、ちょっと凶暴になって、痛みを止めるのに痛まない部分を剥き出しのコンクリート壁か何かに打ちつけるか、あるいはよーく冷やした糸鋸で切断して欲しいくらい、かな。 
 
パラレルワールドが、ほんとにあればいい。
ベッドのあっち側から起きると、あっち側の世界に行ってしまうというのがメアリポピンズにあったけど、どっちの側からでもいいけど、どっかに行きたい。そして逃げようだとか死のうだとか、面倒なことは言わなくていいから、湯治に行こうとか、干し柿をつくってあげるとか、そういう前向きな発言をしてくれたらいいのにと思う。
 
ふたりっきりになったらしたいこと、というのは、痛いところに湿布を貼ってもらうことだったけれど、そういう世界があるんなら、二度とこっち側に戻らなくていいなあと思う。相当な肩の凝りようだ。 
 
院展がやっと当地に回ってきた。ゆっくり見ながら、この絵のこんなところが好きだとか、この絵の色が素敵だとか、作家の名前を覚えたりとかして、いちいち頭ン中で言葉にしてしまったので、ああまずい、と思う。
 
私は私の見た色や線を誰にも話すことはない。 
油彩の中にも、漆器にも、デッサンにも、七宝焼きにも、写真にも、あるいは音楽にも、少し毒はあるんだろうか。毒って言うかどうか知らないけど、私は、言葉は嘘をつくと思う。だからメール交換なんか、嘘つきのする所業だと思う。ひとさまの事は知らないけれど、自分の文はどう本当のことを書こうとしても嘘が交じる。
あるいは私はなまものなので、どんどん言葉を通して空気に触れると酸敗して変質するのかもしれない。
言葉だけが嘘を包括するのは卑怯だと思っていたけれど、もしかしたら書画工芸の類にも嘘はあるのかもしれない。
 
ひょっとしたらそれを「作為」であると、あのひとは言ったのかもしれない。私が言葉の中にある嘘を、わははははと思ったりするように、そういうのを見抜いて嫌ってたのかもしれない。でもそんなことが、すごい経過時間の後にわかったとしても、何の役にも立ちゃしない。 
 
できれば私は言葉なんかを捨てたいかもしれない。私はひとの文が好きで、以前若い男がいたが、そのひとの文が好きで、ほとんど真似をしているうちに、けどけど同化してしまったが、やっぱり狂わんばかりに文章を欲したものだった。今も然り。 
 
だったら残された遺影のような文章でも読んでおけ、と言われるかもしれないし、その若い男の文章もあちこちに残っているけれど、でもそんな言い種は私にはbkyrの言葉に聞こえるんだ。

文章は存在そのものまたは生存だ。死んだ文章の何が楽しいってんだ。私は、何週間も経過したメールなどは絶対に読み返さない。誰のメールも自分のメールも。第一、心に残ることは覚えているんだし、後ほど読み返して何かが分かったところでそれが何かになるとも思わない。
あのときあなたは生きていた。という事実は、私を嬉しがらせるか。よくわからない。 えーと、それで、たくさんの絵画をみて、何だか甘いんだか塩っ辛いんだか分からない気持ちにいらいらして、帰りに東急ハンズのペット売り場によって、熱帯魚水槽のそばで水の音を聞いてから仕事場に戻った。