角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

北斎が魅せた浮世絵版画の世界展 

 

客先で打ち合わせのあと、社長にお目にかかると「どうだ」と聞くので、「つかれた」と答えた。 
  
引っ越しやら何やらをこなして、気持ちがぐったりしている私をえらいなあと言うので、独りだから仕方がないんだと言うと、生きているところがえらいなあと言う。
  
生きてるだけでいいんだと言う。 社長の年若い友人がつい先日、突然亡くなったんだと聞かされた。 話をきいてるうちに何だか悲しくなってきて眠くなってきて目をこすると、を、泣いてんのかと言う。なにがあったか話してみれと北海道弁で聞くのでなにがあったか話すとますます悲しくなった。
 
話すうちに、お前が一番フツーじゃない、とてもお前は変なやつだと言う。 フツーじゃなく、良いと言った。変だけれど、素直で正直だと言った。まるですれていないと言った。変だけれど。 
 
今日、北斎の再現版画を見た。インダストリアルデザイナのようであった。中の人が話しかけてきてプルシアンブルーの話とか教えてくれた。
 
ガレの花瓶の写真との対比もあって、私はこの前ガレを見た時に、ふと思ったんだけど、このひとは、花瓶をつくりたくてつくってるんじゃないという気がした。たまたま花瓶のようなあんばいにはなったけれど、実はそんなことはどうでも良くって、こんな絵柄をこんな色で、何かかたちに。とそれしか考えてないような気がした。なんとなくだけど。そしてそれでいいんだと思った。 
 
ギャラリーに行くとたいてい、中の人が話しかけてきて、絵画なんかの展示では、私に「お描きになるんですか」とたずねる。お描きになりそうだ、と良く言われる。それは誉め言葉のように言うので、そうか、お描きになることはご覧になるよりもよろしいことなのかと合点する。
 
そぉいえば、いつぞやの同窓会では、元男子たちが、お前は昔から独特の雰囲気を醸していたと言った。
そんなんだけで世の中を渡っていけると思っていたんだ。私。 私は、独特の翳りや雰囲気や、お描きになりそうな感じを醸して、変だけれど素直で正直で、すれっからしではなくて、ある種の人にとっては一緒に死にたいくらい都合良く魅力的で、そして私は、この手ぶら感、いや、そっちじゃなくて、無沙汰の感じに放心する。 
 
私は最近放物線が好きだが、私はいつも好きな男に嫌われる。 
でも今は違う。違うと思うんだ。それは確信だ。 嫌われるよりも、もっとすごいことが私の日常にある。
 
それで私は、社長につぶやいたんだ。生きていたくないんだと。バカじゃないのかと社長は言う。 
 
そしてそれからギャラ交渉の本題に入ると、それとこれとは別だ、キリッ。
みたい感じになったので「ちっ」と思った。 私は自分を癒そうとか癒されたいとか全く思わない。んなことどうだっていいっていうか、とてもそういうのはダメな気がする。私はこのまんま、じくじくとかぐずぐずとかうじうじとか繰り返し言葉のどまんなかで、終わりなくつらがっていればいいと思う。
 
わたしはチラ裏という表現、というか排泄手段をもっているけれど、表現ツールのない人はどんなにつらかろうと思う。 
 
チラ裏なんで、もう好き放題にだらだら書いとくと、大体私は人語を解さないんだ。 
こないだも、相互接続という言葉に引っ掛かり、もう何も分からなくなった。相互接続って何だろう。何だろう。何だろう。「接続」だけではいけなかったのか。相互でない接続があるのかと延々考えた。わたくしたちは余計な言葉が多すぎやしないか。なんだってこんな、だらだらな日記を私は。

「言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、沈黙だと思うんです。」と吉本隆明wrote. あ、自分は吉本隆明の本を人から借りて、読めなくて、突っ返したあげく、かしてくれた人まで嫌いになった経緯があるけれど、 私は自分のわからなさやくるしさから私は抜け出さないほうを選ぶ。