角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

初の峠越え

 

いつか越える日がくる確信を事実に変えた。お日柄も良く峠デビュウ。 
 
引越しの後始末は放って、中山峠に向かう。 お約束の揚げいもを買い、滞留時間15分くらいで戻ろうとしたが、写真の森美術館というのがあるらしい。 
 
道の駅2階の連絡通路を行くと、美術館はあって、外観を知らないために簡単な写真展示を想定していたら、思いがけず広々としたギャラリーがある。 
物産館の方には人が大勢いたけれど、ここには誰もいなかった。 道内の自然景観を撮った写真が主な作品だが、中にティーラウンジやDVDシアター、ミュージアムショップもあり、シアターは見る人もないまま、プログラムを上映していた。 
 
ギャラリーやティーラウンジの大きな窓から羊蹄山が見える。 
 
バルコニースペースに出ると、雪の山が目前にそびえる。空は雲のない5月の青だった。建物のあたりは白樺林の雪の斜面だ。階下の日当たりのある部分が丸く溶け、ふきのとうが育っている。 
 
シマフクロウの、という冠を付けて覚えている嶋田忠のゾーンは、照明を抑えきった、ほぼ暗闇にシマフクロウの羽ばたきがあった。 どういう具合なのかちょっと想像がつかないが、漆黒にシマフクロウの輪郭がコロナのように燃え立つ写真があり、それは、私が好きで、2つ保管している画像を瞬時に思いださせた。 
 
いつなんどき、どこで何に、ゆさぶられるか見当がつかないし、しばらくはこういう感情の急襲があるので注意しなくてはいけない。暗闇はありがたかったし、見物客がいなくて良かったと思う。 静かな良い時間を過ごせた。 どこで過ごしても1時間は1時間だ。 私には、手持ち時間が少なくなっていく感覚というものが常に強くあって、だからといって自分の時間を大切に目的的に費やすことはないけれど、人が自分に割いてくれる時間ほど貴重なものはないと思う。 だから、その人が自分に割いてくれた「時間」を、不毛な無駄遣いとした自分のやりかたは犯罪的ですらあった。 
 
人と人の関わる時間の中に、ことごとくyesしかないのは嘘だと私は考える。それはどちらかが生きていないことだと思う。
しかし、生々しい感情を相手にわたすには、受け取る側との高次な関係性が必要だ。バレーボールの大きさにはバレーボールの重さが適切なのであって、過剰な質量があれば相手を傷つける。 

昨日読んだ一文に、執着の原動力は蔑にされることや伝わらないことに苛立つ怒りのエネルギーであるというようなことが書かれていたが、自分の文がどなたにも読まれていないことを考えると、書く作業は喪失感をあおるし、同時に執着を募らせることかもしれない。

旧事務所の荷物を、自宅と新事務所に振り分けたが、昨夜、青木くんがいないことに気付く。青木くんというのは、大事にしてきたパキラの鉢ものだ。 ときどき茶碗をすすいだ水を遣ったりもしたが、ミネラルウォーターを私と青木くんで分けたこともあった。 何もかも失くした気がする。