角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

絶滅した。

 

えーと、きゅうりを買いにいってきゅうりを買い忘れてまいりました。
 
本日は午前中に朝顔の店じまい。蔓の絡んだ格子ロープはそのまま廃棄することにし、組み立てた支柱は分解して来春まで保管。朝顔の今季の活躍に感謝し、慰労というか供養というか、缶チューハイを買ってきた。魚も焼く。茄子も焼く。まあ、ふつーのごはんだけど、ちょっとは朝顔のことを考えようという企画。
 
9月から仕事がはじまるので、順当に行くと65歳までは夏休みらしい夏休みは望めないため、少し贅沢に遊びに行こうと考え、といっても贅沢はできないので、新千歳空港までなら行けると思った。飛行機が飛ぶのを眺めて、空港ビルには映画館も温泉もあるし、ソフトクリームの店は数えたら20店舗くらいあったので、いちにち遊べる。と、考えたんだけど、やめた。私としてはとてもたくさん考えてやめた。
 
月曜日にネットの工事があり、そのためにいろいろ出費がかさむのを思い出したからだ。今ではせいぜいよくて5本のうち2本しかアンテナが立たないか圏外表示が出る始末なので、こんなことなら張り切ってネット環境を変えるのではなかったとしみじみ思う。私は買い物がとても下手だ。考えるわりにはまるでだめだ。
 
コロマイトだってそうだ。まるでこのままじゃ、昔の各家庭にあった。かどうかは知らないけどネコイラズのごとく、いざと言うときに飲むためのもののようで、英語で言うとto drinkね、とても気味が悪い。ので、便利屋さんに確認中だ。
 
それでコナジラミはどうしたかというと、絶滅したようだ。黄色い粘着シートがいいと聞いたのでコロマイトと一緒に購入した。黄色に集まる性質があるようだ。それとネットでみて作った第2弾、水に少しのサラダオイルを入れて、乳剤と書いてあったので、まあいいやと思って粉せっけんを少量いれて振った。それも粘着仕様の液体として有効と書いてあった。粘着系2タイプ併用が奏効したのと、大量発生の根源だった「野原プランター」を土ごと始末したことで根絶したかに現在は見える。
 
でも、考えると恐ろしいことだ。対象物がコナジラミとはいえ、根絶、根絶やし、絶滅を願ったのだ。特に人間には害がないとされているにもかかわらず、増えた、というだけで。人間なんていずれダブスタ、身勝手なものだと思う。
 
飛行機を眺められないので、代わりにflightradarを見た。こちらの方は俯瞰するとコバエのようであった。
仕事のことは様子を見てから書くけれど、パートタイムはあくまでも副業と捉えている。そうでなきゃいけない。
 
なぜフルタイムではないのかというと、フルタイムでは需要が皆無に等しいことと、副業にフルタイムを充てるのはおかしい。
そしてなぜ副業・本業にこだわるのかというと、どんなに好条件の仕事があったとしても、就業形態に関わらずほぼ間違いなく65歳までで終了するからだ。私はそれはいやだ。私はむしろ100歳くらいまでは現役で仕事をしたいので、実はまだまだこれからなのだった。なので、今、飛行機に乗れないからといってそんなに打ちひしがれる意味なんかない。
 
ときどきギャラ社の彼女を思い出す。彼女にしたって、自分でやっていくしか生きていく道はないのだろう。なにしろ私と同じ年齢だ。会社をつぶしたりは出来ないに違いない。境遇をある程度は知っているし、よく頑張ってきたと思う。

だからうまくやれば、彼女の不得手部分を少しは補うことができたのかもしれないけれど、しかし、会社としての根本部分が腐っていると私が認識した以上、依って立つ原点が違う以上、どんなに取り繕っても、なんど寄り添っても、必ず離れるのが見えていた。
私は彼女の悲しみの部分が良く分かる、と自分では思っている。私がおだてられて調子に乗ってうっかり関わってしまったのが間違いだった。最初から拒否し通せばよかった。彼女からの最後のメールは極めて長々と文字があって、ざっと読むとそのすべてが私への恨みつらみで埋め尽くされていそうだったので、実は私は全部を読まずに削除した。
かわいそうだと思った。二度と会わないひとになった。
 
ギャラ社のことを思い出すたびに、他にもさまざまな要素があって、深々と考え込んでしまう。私は自分が正しかったとも正しくなかったとも思わない。きっと両面ある。正しいことの裏側に正しくなさが隠れていることだってある。それにしても、自分は、嫌なことからは徹底的に逃げる人間なのだと思った。たぶんどんな手段を講じても逃げる気持ちを抑制できないのではないだろうか。私にとって、生き延びるとはすなわち逃げることなのだろう。逃げないとか、ぶれないという言葉は、むしろ不思議に響く。