角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

大発生。

 

心が折れる。だなんてあやしい言葉を一度も使ったことがないし、これからも使う予定もないのだけれど、折れそうだ。長い文章になるかもしれない。
 
大発生してしまった。朝顔というのは実にアブラムシが付きやすい性質なのか、大体毎年発生するのだけれど、どういうわけか今年はアブラムシの顔を見ることなく、満開御礼のような感じで収束しそうだ。けれど、無事の朝顔をのぞき、別種の、検索して知ったのだけれど、コナジラミという白い小さいのがまたたくまに増えた。記事によればアダムとイブがいれば3カ月の後に700万になるとのこと。
 
朝に夕にと暇にまかせて葉裏に霧吹きをかけて洗い流していたにもかかわらず、態勢が不利になった。
今まで虫のついたことのないアボカドにまでついた。飛ぶ虫なのであちこちするのだ。
野原の種を植えたプランターは、もう大体花が終わったので土ごと処分を決めた。
 
さて、バオバブはこのあと何十メートルにもなって2000年も3000年も生きる樹木だ。少なくともそういうポテンシャルを持っている。まだ15センチくらいのを購入したから、文字通りの幼木、大変に気を配ったつもりなのだけれど。
 
植木というのは、興味のない人には全く理解しがたいと思うけれど、私にとっては財産だ。
アボカドは種を植えてからもう何年も経っている。パキラは母が住むのに階下の小さい部屋を買ったときに不動産屋さんがお祝いにくれた。それを株分けして両方とも生長した。
ガジュマルだって小さい鉢に入ったミニプランツだったのが当時の5倍丈くらいにはなった。君子蘭だって母が大切にしていて、それを私が株分けした。どれも見事な株になった。息子がくれた日日草は毎年花を咲かす。
古いものにはそれなりの、私の暮しとともにあった歴史があるし、今春のニューカマーは、ヒカゲヘゴとクワズイモ、そしてバオバブで、服を買ったり旅に出たりするのを返上して、どうしても欲しくて買って、大切にしているものだ。
 
と、こんなにぐだぐだ書かなくてもいいんだけど、根気のない自分にしては植木の世話だけは、ちゃんとする数少ないもののひとつだ。あとは思い浮かばない。もしかしたら自分の趣味は「ガーデニング」なんだろうか。
 
で、軽めのスプレー薬剤を使用した。あまり効果がなかった。やっかいなことに抵抗力をつけるらしい。
でんぷん糊成分の製品が販売されているのを知って、それなら自分で作れるだろうとネットをみたら、やはり自作されている方々がおられ、作って散布した。作り方のせいか、効果がなかった。次にコロマイト乳剤というのが効くというのを読んで、ホームセンターで購入した。
 
早速使おうと思って箱の中の能書きを読むと1年に1度の使用で良いとある。拙宅の鉢の分量からすれば0.5mlあれば足りる。そうすると30mlの小瓶は計算的には60年分の分量だ。
 
私はあと60年生きないので、もうあきらめてこれは廃棄処分にしようと考えた。みだりに瓶を開ける前に、と。それで市のゴミ分別事典を見ると、農薬は収集しないゴミの分類だ。
どうしようかと市の担当窓口におたずねしたところ、なんだか不得要領の若い女性が応対し、案の定、市の清掃事務所に直接聞いてくれと言われる。
清掃事務所に電話をすると、買った店に聞いてくれとのこと。それでホームセンターにメールで問い合わせをした。
すばやく返事をいただいたのだけれど、引き取りはしないことと、仕入先確認をしたけれど使い切り原則とのこと。簡単に劣化する商品ではないので継続して使ってください、という内容だった。
 
知りたいことに答えていただけないと本当にうちひしがれる。来年も使えとか、誰かと分け合えたらいいねとか、そんな寝ぼけた話を聞きたいわけじゃないのだ。
 
劇毒物の指定ではないけれど、それでも下水や河川に流したりするのは厳禁だと商品説明にある。

私は、自分に何か利益を生むために動いたわけではない。そんな微量で効果のある農薬だからこそ簡単に無造作に流したりしてはいけないだろう。私の遺品をいっしょくたに捨てるときに、農薬が混じっていることは、良くないだろうと私は真剣に考えたから困って調べたのだ。私の死後に、誰かが知らずにそういう愚を犯してはいけないとも思っているし、愚を犯させないというのも古い世代の役目なわけだ。
 
けれど処分の方法を誰も教えてはくれないばかりか頓珍漢なことを言う。
 
おそらく産業廃棄物処理の会社で処理できると思うけれど、30mlの小瓶を個人が持ち込むようなシーンは想定されていないはずだ。それでも、私は、未開封のまま、捨てなきゃいけないと思う。それは後日、なんとかしようと考えている。知人の便利屋さんが産廃関係に詳しいから聞いて見る。
 
捨てられないような商品を作っていいのか、だまって販売していいのか、処分・回収のシステムくらいは先に作っておくべきではないのか、販売時点で何かしらのチェックがあってもいいのではないのか、といろいろ考えたけれど、捨て方も捨て場所も不明瞭な、あのあれを温存している国なのだ。すごい何かを大量に流して病気を作った企業だってある。30mlくらいは、浴槽の排水口から捨てていいのではないか。とか書いて見ると、とても嫌な気分になる。規模の多寡ではないのだ。
良心というのか倫理観というのかモラルと呼ぶのか分からないけれど、それは、個人であれ組織であれ、必要なんだと思う。
 
  
たまたますれちがったブログに「誠実であろうとするから、コミュ障になる」と書いてあった。
もはや誠実とは呼ばれなくなったけれど、ところどころでコミュ障になる。「真の人間嫌いは、他人の不誠実さに対する不快感と並んで、自分自身の不誠実さに対する不快感が表裏一体となっていなければならない。」んだそうだ。
 
自分の不誠実さに対する感覚を研ぎ澄ませられたらいいのにと思う。