角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

チュアブル

 
鳥とすれ違う時であって周囲に人がいないとき、私は鳥を呼ぶ。「とり」と呼ぶ。「とり」と呼ぶと鳩もカラスも「え」、な顔をする。「わたしってとりでしたっけ」みたいな顔で首をひねる。鳥をとりと呼ぶ以外にどう呼んでいいか分からないんだよ、とり。
 
まだまだ雪の溶けない大通公園の、人が通ったあとだけが細い道になった道を歩くと真正面から鳩が歩いてきて、そこのけと言わんばかりに歩いてきたので、よけた。このとりはとりだけれど、角度は私だけれど、私は角度ではなく、とりの質量に私は負けているようだ。ぶれた分だけドロップシャドウする。それで独特の翳りがあるひとだなんて言われるもんだから、独特に翳りまくって、馬齢を重ねた。無駄を重ねた。
 
なんの意味があったんだろうと思う。
 
けさ私が手に受けた白濁は手の中でとりの形になった。
 
ゆるく崩れていくてのひらの中の白鳥。
 
あなたは。
 
あなたは、私のいちばん敏感な部分を敏感さゆえに好きかもしれないけれど、敏感な部分だけを可愛がっても私は幸福にはならないし、それはピクセルであるだけで、まったくわたくしではないのだから、私は幸福にはならない。あなたは、あなた自身は反射を幸福と呼ぶのか。わたしはわからない。わたしは熱烈に、とりかさかなかあなたか誰かを幸福にすることを希求するが、ピクセルにはそれは無理だ。
 
あたたかく崩れていく、てのひらの中の小さなとり。
 
鳥の形を失った白濁を、わたしは少し鼻に近付けて
 
それからそっと顔に塗る。
 
日焼け止めですから。