角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

冬の朝。

 

目が覚めたので朝方なのかと思ってじっとしていたら、5時40分に設定している暖房器がなかなか作動しないので、朝ではないのかと思って時刻を確認すると4時を済んだばかりだったので、3時台に目を覚ましてしまったらしい。

もうひとねむりしなければと思ってさらにじっとしていると、交感神経と副交感神経の活動がチェンジするあたりでクシャミが出始めたので、身体的にも眠る気持ちがさらさらないのだと諦めて照明を付ける。
 
読みかけの本を読もうとしたのだけれど、眼鏡をベッドの下に落としてしまい、ずいぶん迷う。何しろ暖房がついていない未明にしぶしぶと眼鏡を拾ったものの、手を出して本を読むのは寒いので、眼鏡をかけたまま天井をずっと眺めていた。
 
日記を書かない期間というのは何も考えず何事も起きず、という空白なのではなくて小出しに書いていかなければあれもこれもと収拾がつかなくなってしまう混沌の期間だと思う。空腹時にあれも食べたいこれも食べたいと気持ちが胃袋に引きずられててんやわんやになるごとく。
どうせ大したものを食さないのと同様に収拾がつかないと言ったって駄文は駄文だ。
 
美しい文章を書く人を知っている。力のある文章を書く人を知っている。憧れる。
 
たとえば村上春樹の文章やストーリーに関しては非常にたくさんの反応が、ときにマイナスの反応が有るのを知っているけれど、個人的にはするすると読んでしまうので、自分がこのように読み進められるというのは作者の凄い力だと思うのだけれど。文字通り三行くらいしか読めない本だってたくさんあるのだから。
 
感じ方や考え方の度合いが浅いから私には文章がなかなか書けないのだと思う。
数行の日記すら書けない作文力だったとしたら世界は変わっていただろうし、書かない世界が幸福でないなどとは言えないものだ。
文章を書くことが好きだった。書き続けていて本当に良かったと思うと十数年前に母に話したことがあるけれど、すでに母は他界しているから前言訂正の必要もない。
 
6時の目覚ましが鳴って目を覚ましたということは、いつの間にか眠っていたのか私は。