角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

中秋。

 
ソース自体は古いのだけれど、繰り返されるご提言のひとつとして「キーボードに“かな刻印”があるのはどう考えてもおかしい」という記事を見つけた。
現代の人は日本語がお嫌いなのだろうか。邪魔にされて気の毒だ。
私はかな変換で覚えたけど、使う時は特にキーボードを見ないので日本語がださいとかじゃまだとかそんなことを思ったことがない。刻印が当たり前の時代だったからそう刷り込まれてしまったのかもしれない。
 
この記事に対するコメントをCERONで見ているのだけれど、多くの人が、かな刻印を不要だと言っている。けれど「かな表示不要論は、空港のラウンジが使いたいけど自分のランクでは使えないヤツが、目障りだから廃止しろってのと同じ理屈。」と言ってる人がいて、うまいことを言うものだと、全くうまいことの言えない私は感心しきりだ。
  
デザインノイズとかいうのは、個人的にとても嫌いな話だ。というか、ときどき大嫌いだ。
 
ああもうこれ以上私は言えない。いまふうに言うと何ら言語化できない。何がどうだから嫌いなのかを説明できない。
 
その昔から私は怒っていたのだった。

どの昔かというと、私がwindowsとmac、という言い方が適切なのかどうか分からないけど、とにかくそのどちらもが仕事の机上にあったときの頃だ。私はOSのことなんか何一つ分からないのだから、OSの相違点というよりは、インターフェースというか、使い勝手というか見てくれというかそこらへんの目に見えたりマウスで動かしたりする、つまりは末端操作に関わるときにmacの方が使いにくかったという話だ。以後windows一辺倒になった。

美しさなんかまったく、金輪際必要としていなかったのだ、私は。

どんなに起動面が野暮ったかろうと私の仕事に何の関係があるだろう。ださくたって一向に無問題だ。はっきりと見やすいことの方が私には有益だった。エクセル上で半透明の美しい何かが出てきたところで見づらいだけだった。
当たり前だけれど、windows上でillustratorを使う時もなんら問題はなかった。どうして周囲の人はそれを馬鹿にしたのか今もって分からない。美しいマシンや美しい机、美しいギアやギミックやらとにかく美しくてセンスの良いもので仕事をしなければ良い仕事ができなかったのだろうか。
 
windowsのパソコンをもう何台買ったか分からないけれど、現有のが壊れたら、もう私はパソコンを買う必要がないのかもしれない。いったいパソコンで何をしようというのか。もうillustratorもphotoshopも要らない。エクセルは要る。ワードは絶対要らない。パワポはどちらでも。私は「メモ帳」をタスクバーに置いて、極めて良く使うのけれど、代替アプリがあればそれでいい。「クロームブック」と、カタカナで書くと不思議な気がするけれど、この次はchoromebookが自分の用途に合っていていいような気がする。そうやって店じまいをしていく。