角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

許すも許さないも。

 

扇風機は片づけてしまったというのに、再び暑さがもどってきた。まああと数日の辛抱だと思う。
今朝は起き抜けにシャワーを使った。髪をもっと切りたいと思う。
 
昨日の夕方、息子が出張のお土産を手にやってきた。ついでなのでピアノを弾いてもらう。私はぴくりとも手を伸ばさないので処分しようかと考えたのだけれど、こうやってたまにくる息子が弾いてくれるならそれはそれで嬉しい。買い替える予定と言うけれど、幼児が這ったり転がったりする空間の方が大切かもしれない。
 
以前同じマンションに居住していたとき、興味あるチャンネルジャンルのアンケートを行うなどしてケーブルテレビ加入の営業があった。
営業の人が言うに私と全く同じ回答があったというので、もしやと思い聞いてみると息子だった。ネットにのっている性格診断のようなものもほとんど同じ結果になった。そればかりか、ネットで読む話題やニュースも近似しているし、何年も前に食べたインスタント焼きそばをふと思い出して先日買って食べたとメールすると、彼もまた今日食べたとかいう。食べ物の偶然はしばしばある。
要するに私たちは外観はともかく似ているのだ。文字通り親子のように。
 
けれど私自身をいうと、ひとに心を許すタイプではない。というか、それがどういうことなのか分からない。「ひとに心を許さないタイプだ」と息子に言われたことがあるけれど、心を許した場合の言動がどうなのかが分からない。そしてまたそこも似ているのだと思う。
確かに遠慮がちな気配が極めて微かに我々にはある。ふつうの親子がどういうものなのか私には息子一人しかいないし、彼にも母親は私一人しかいないので良く分からないまま年月が経った。
 
そういう何となくの物足りなさや寂しさが息子にあったのかもしれない。配偶者にはすっかり心を許せているようなのでやっと安らぎを手に入れたのかと思うと私も安心する。そしてこれまでの母親ぶりを申し訳なく思う。
私は、恋愛は別として、再婚なんて全く考えたことがなかったし、教育費のために人の倍くらいも働いたけれど、それだけではだめだったんだろう。
 
生活が配偶者の実家よりになっているのは致し方ないことで、幸せそうなので無問題だ。
息子にとって実の母親というのは遠いふるさとのようなものだ。
 
誰からも必要とされなくなった私。
 
などと考えて鬱々とするタイプではないのだった私は。