角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

9月の海。

 

バスの終点「石狩」から歩いてはまなすの丘公園へ。

すでに花は終り、今は結実のとき。しこたまミニトマトをばらまいたように遠目にも赤い。そこから歩いて番屋の湯へ向かう。右手に海が有る。波の音が聞こえ、磯の香りが強くなる。波は荒く、遠くに船が見えた。ひと気のない浜で波が追いかけてきそうな気がしたので振り返らない。
左手の小道を分け入る。伸びきった枝葉をまたいだりして少し歩くと急に視界が開けて本郷新の「無辜の民」のブロンズ像が唐突に出現する。あるのは知っていたけれど、わざわざ草をかき分けようと思ったのは今日が初めて。
この像の由来もいきさつも私は知らないけれど、衝撃を受けた。近寄れない。
 
温泉に着くと汗だくになっていることに気がついた。今日は28度もあったらしい。ひさびさの露天風呂が嬉しくて長湯をしたせいか、たくさん歩いたせいもあるか、疲れてしまった。
 
はまなすの公園にはもう何度も行って木道は何度も歩いたけれど、未だに木道をわたるときに微かな気持ちの揺れや高揚を感じる。私にとっての木道は、遠く続く先の見えない、どこに辿り着くか分からないものなのだ。
ずっと歩いて幸福になりたいとかおこがましいことは言わないけれど、ずっと歩いて嬉しいことがあればそれに越したことはないだろう。
けれど、一体木道の先、木道の開けたところに何があって何がどうなれば良いと私は思っていたのだろう。木道の終わりに私が見たかったのはどんな景色なのだろう。いつも考えていた。

私は分からなかった。

私は自分の世界がこんな色でこんな風景で傍らに誰かがいて、そんな関係で世界が回っていくというような絵を描くことができなかった。
明日の朝ごはんなら何を食べたいか決めることはできるのに、私は自分が何によって充足されるか理解できずに生きてきた。私が朝ごはんだけでできているのならいいのだけれど。