角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

部長日和。

 

5月末で前職の廃業届を出すので、もうずうっと前からK社長にはそれをお話してあったのだけれど、かなり食い下がられて消耗した。だらだらと些細な仕事を続けてもきりがないので、強硬手段として、回線も失くすし、それから請求権も放棄するとお伝えした。
つまり、何らかの事情で作業をすることがあったとしても、請求はしませんよ、という意味だ。そこまで言えば、品性に欠ける人でもない限り、ご理解いただけると考えた。
  
メインの仕事だった「文集」作りは91号まで終えた。1999年5月が第1号で、奇数月発行だから16年目に入ったところだ。

小学校の文集以下の体裁の資料を、K社長がとりまとめる異業種交流会のメンバーや、企業に配布するだけの規模だったので、当時多忙を極めた自分には、無理やり押し込まれた感が強く、
誰も読んでないよ、と社長がいつも言っていたから自由度は高かった。
表紙には何か適当な季節の俳句を社長が書いて寄越したので、こちらも適当なビジュアルを小さく表紙に入れた。
自分がつくる最後の文集の表紙には、橋本平八の達磨の画像を入れておいた。彫刻を世田谷の美術館でみたとき私は橋本平八を知らなかった。達磨像は旅行から戻っても繰り返し繰り返し思い出された。文集の表紙に達磨像を入れたのは2度目だ。どうせ誰も読まないので気づかれることもないだろう。
 
変な言い方をすると、周辺の作業で、私しか頼るもののないK社長と、仕事を何一つお引き受けしたくない私の間の攻防はようやく終局した。不思議だけれど寂しさとか悔しさとか何一つの感慨も私にはない。
社長が、では簡単な食事の席をもうけたい、というので固辞した。あろうことか地下鉄駅で遭遇した彼のかつての宿敵に違いないあのカリスマ社長に、私の現状報告をし、さらに、では皆で集まろうという話になったので何日がいいかと聞く。冗談じゃない。
カリスマ社長にはお目にかかりたくないと言うと、では自分と二人で昼食でも、というので、限りなくお断り方向で保留した。
 
こう書くとまるで私が悪い人間のようなので、きっとそうなんだろう。

K社長が、一人事務所でありながら、電話とFAXとコピーしか使えないのはいかにも残念であるが、「メール」と声にだして発音したこともないのでは、と思われるくらいパソコン関連の作業や動作を無視してすごしてきた年月のこととか、最寄駅から事務所までの道のりに一つ休憩をはさまなければ辛いことだとか、少しずつ怪しくなってきた原稿とか、電話口でするすると言葉がでなくなってきたこととか、終面が透けて見えるような、時の砂粒が数えられるような。それらを私は感慨しない。
 
日差しが風に吹き上げられて揺れるような正午近くの風のある日差しを歩いて、こんな日はS部長に似合うんだろうなと不意にS部長を思い出す。
 
1月に南の島で若い社長が亡くなった話を書いたけれど、私に届いた訃報はその1通だったのだけれど、元の社員らには1通2件だったか、2通同時だったかは忘れたけれど、S部長の訃報が届いたのだと言う。
S部長はカリスマT社長のもとでクリエイティブの部長でありデザイナーであり、ファッション感覚が際立っていて、ご自身の風貌もミドルのモデルのようであった上、きわめて雄弁な人だった。独立起業したのは前の会社が倒産して数年経ってからだと聞く。
私の事務所にもひょっこり訪れてくれたことかあるし、一昨年だったか新会社もどきの事務所にも来訪なさって、相変わらず陽気でお洒落なご様子だったのだが、仕事的不調が原因だったろうか、自死を選んだせいで最後のお別れはご家族だけでなさったらしい。
 
しかし、こんな風の強い日差しの5月は、ベレー帽を片手で押さえたS部長が人波に紛れて歩いていそうなのだ。
部長が歩いたのは彼の人生ではなくて、カリスマT社長のもとで続くはずだった会社人生の幻影を歩いたのかもしれない。
K社長だってきっとそうだ。T社長と協同で作りたかった華やかな会社人生の幻影を未だ休み休み歩いているのかもしれない。
当のT社長はどうだ。傘を杖がわりに使いながら、足元覚束なく、羞恥なく、飲みたいだけ飲んでこの世をばっくれるお気持ちなのだろう。ひとの絶望や諦めや不遇の上に傘の先を突きながら毎日を繰り出していく。