角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

雨かしら?

 

至近にコンビニが3件あって、ローソンではwaonカードが使える。pasmoはセブンイレブンで使え、セイコーマートではsapicaが使える。sapicaとpasmoにはまだ結構な残がある。一番近くなのはローソンなのだけれどwaonカードには1000円以下しか入っていないはずだ。朝からずうっと雪降りでもあるし、わざわざ日が暮れてから外に出るのもいやだ。
 
なにしろ現金が財布に入っていないのだ。160円しか。しかもそのうち1円玉が10枚。財布の中をしょっちゅう開けてみるわけではないので、いくらあるかなんて全く分からないし、こんなのは毎度のことだ。うっかりそれに気づかずに買物をしようとしたことだってある。
 
と威張る必要もないけれど、家に現金を常備していないので、もう160円といったら160円しかない。いままでそれで通してきたし、なんらの不都合はなかったけれど、万一こんな時に緊急事態が発生したらタクシーを使うこともできない。自分自身が間に合わないのは自業自得だけれど、ひとのために間に合えないのは、それは駄目だと思うので、以後、なるべく少しくらいは常備しておこうと決めた。
 
夕食のしたくをしていて、スライサーで右手親指の腹を軽く削いでしまい、それで本日は予定変更してコンビニ食でも、と考えた次第。
 
こんなとき、家族がいれば、きっと「きゃあ」とか「いたっ」とか声を出すのではないかと思うけれど、そう考えると他者の存在に対して、ひとは無意識のうちに何か期待を抱いたり、拠り所としているということかもしれない。
私は長いこと一人なので、声もださない。黙って血を流すのみだ。
では家族がいれば、特に配偶者などがいればよかったのかというと、それはどうだろう。「どうした?」くらいの声掛けはしてくれるだろうし、なんなら絆創膏を貼ってくれるかもしれない。おまけに食事の支度はできなくてもコンビニで買物してきてくれるかもしれない。そして大体それっきりで、事態を忘れてしまう。
些細な怪我とはいえ、いろいろ手先を使う動作が全部不自由で、第一痛い上に、まだ血が止まってもいないのに、配偶者はテレビを見てあはははははと笑いだすかもしれない。それはそれで構わない。
 
なんていうか、人はひとりだろうと私は思っている。
私は大体いつもそこからスタートするし、着地もそこだ。わたしのいたみをひとは分からない、などと甘えた話をするのではなくて、ひとはひとのいたみを分かり得ないだろうと。いたみは喜びに似ている。か? 私は知らない。


  
結局コンビニには行かず、四苦八苦して卵かけごはんを急いで食べた。まだ血が止まってなかったからだ。ガーゼをあてたところで傷口が乾きはじめるとあとではがすのが大変だと思い、箪笥の奥に残っていたあのあれを使ってみる。大変に具合がよかった。餅は餅屋というものだ(笑)。
 
親指をそれでくるみ、掌をひらき上に向け、心臓よりも少し高めにして、早く血が止まればいいと思って、口の中でフィブリノーゲン、フィブリノーゲンと呪文を唱えた。
  
ああこの格好は、知っている。「あら雨かしら?」