角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

孤独百年。

 

父親のお墓に行って、今期の墓参活動は終了した。
父の墓所のあたりは市内でも揺れが大きかったのだろうか、一部被害も報じられていたのだけれど、気がついた限りでは被害はなかったように思えた。
ところが、父方の親類一家のお墓の棹石が倒れているのだった。因縁話のようなものを私は信じないけれど、それでも近接の、全く同じ構造に見える父実家の方が何ともないうえ、生前の行状を考えると、そういうこともあり得るのかと神妙な気持ちになった。母などは生涯にわたって、恨みつらみのような気持ちでいっぱいだったようだ。母も大概執念深いなと私などは思うけれど。私もこどもの頃から嫌いな叔母ではあった。
ひとりいた娘、つまり私の従姉にあたる人間は結婚して夫の姓になったため、家的にいうと、叔母一家は失われたのだろうか、いや、叔母の配偶者に兄弟がいたかもしれない。私は知らない。
その叔母と母が一年違いで亡くなったことは前にも書いた気がするけれど、それを知った時は、気が抜けたような気分になった。ひとつの確執の時代が終わった、みたいな。
 
明学に行った由美子さんが、ガルシア・マルケスがノーベル文学賞をとったあの本を読んでとても良かったと言った。私はすかさず読んだのだけれど、ひとつも分からなくて、由美子さんは本当に読んだのだろうかと嫌な勘繰りをした。
そんなことを思い出す。大雑把にいうと、長きにわたる家的&トライバル的すったもんだの物語だったのではないかと今は思う。
   
父の方の石に触れてみた。ぐらついたり、倒れかけた場合は、そのまま放置して逃げようと思ってたけど押してもひいてもびくともしなかった。父実家が立派なひとびとだったというわけでは全くない。
 
血族なんて、まあ大体似たり寄ったりではないかといろんなところを眺めてもそう思うに至る。番狂わせがあったり、こんなはずじゃなかった案件が起こったり、何もかも台無しにする人間が入り込んだり、樹木になぞらえるならそうやってどんどん果てしないように伸びていって、ところどころ剪定される。剪定の意思など誰も持ちえない。
 
家とかお墓のことをとりとめもなく考えがちな性分なので、もう本当に若い頃から家制度を疑問視しているのだけれど、途中まで考えて、子供のことを思うと、どうするのがいいと自分は思うのか、が分からなくなる。自分のこどもは「ワタシガ育てました」というほどの大したことはしなかったけれど、離れたくなかった。
だから私は最期まで家制度について思うことをまとめられないのだろう。別に課題じゃないから結論できなくても構わないと思う。
 
ホリエモンが、これからは人材もシェアリングの時代だ、家族とか結婚も多分そうだ、と言っていて、この人は嫌なこともたくさん言うけど、たまにいいことも言うのでなかなか嫌いにはなれない。最近の浮気の報道率が高いのは、恐らく一夫一婦制の結婚システムの末期症状だとも言っている。それは私も考えていた。結婚システムを失くそうとか、そういうことを思ってるわけじゃなくて、個人に属することを夫婦や世帯で括るのはよくないというようなことを考えている。
  
お墓にはそんなに長い時間滞留していたわけじゃないけれど、とてもお腹が空いたので、帰りに羊羹を買った。お彼岸のお供えセットのお菓子が美味しそうだったけど、いくら私でもそれは本末転倒すぎる。