角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

真っ白。

 
暗いのが嫌なら、陽射しのあるところへ行けばいいのだと、散歩に出たけれど、人恋しさがあるのだろうか、森ではなくまちの方に向かってしまい、やっぱり地下街を通ってジュンク堂に行った。
 
買いたい本を見つけてから、近くにあった穂村弘の「ぼくの短歌ノート」をぱらぱらすると、とびこんできた短歌があった。「六つ切りの一切り半は八つ切りの二切りと同じ 朝食はパン(大森正道)」というものだ。この感覚がとても好きだ。焼いてない食パンの真っ白がぱあっと目に浮かんだ。
それでこの本も購入した。
 
短歌も俳句も勿論川柳も読むのは大好きだけれど、なにひとつ自分ではつくれない上、勉強しようとも思わない。専ら鑑賞するのみ。この本、旅行に持参しようかと思う。旅行の時は何かしら本を持ったり、旅先で買ったりするけれど中には持って帰るほどではないと判断して読み捨てる、まさかゴミ箱には入れないけれど、ホテルに置きざりにすることもある。めったに雑誌は買わないけれど、たまに買ったときは、清掃の人にメモ書きを書いて残していく。
 
そういえば昔、元の夫と付き合い始めたころに女性週刊誌は読まないのかと驚いたように聞かれた。私は読まない。女性週刊誌を読んでいる人も知らない。待合室関係に置いてある本というイメージしかないので聞かれた私の方が驚いたことを思い出した。
 
いつもいつも中古本ではなくて、たまにはこうして買うこともあって、なんだかどんよりしていた自分に少し贅沢をさせた気持ち。
 
 
職場の方はどんどん残念感を増していく。同僚の人が業務連絡のメールをくれるのだけれど、食材発注は本店にいる社長がしていて、社長が面倒くさがったり、諸般の事情があると欠品するものもある。今回の地震の事後で大手チェーンなどはお弁当に入れる1品が欠けるだけで商品として店頭に出せないので大変辛い、というような記事を読んだけれど、まさにそういうことが起きている。大手ではないしチェーンでもないけれど、ひとつ食材が欠けると作れなくなる商品がある。どんなに素晴らしいカレーライスを作っても、端っこに入れる福神漬けが欠品していたら、売り物にはならない。商品には様々な情報が記載されたラベルを貼っているけれど、その中に記載された食材は当日の都合などで簡単に変えることができない事情がある。
 
撤退に向かって、こういうことが日々起こってくるだろうと思う。食材だったり、あるいは容器だったりと。「不足」の事態だ。私自身は、店舗が閉鎖する経験というのははじめてなので、どうなるだろうとむしろ面白がっている。製造できなくて店頭の商品数が激減した、というような事態になっても、特に動揺したり混乱したり困ったりはしない。いわゆる、ないものはないのだ。雇われているパートの裁量でどうにかなる問題でなければ、黙って見ているしかないだろう。
  
店舗閉鎖といえば、自分自身の店を忘れていた。すごい勢いで始末して返還した翌日は本当にさわやかで幸福な朝を迎えたものだ。